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ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(1)

 「enjoy Korea」を見ていたら、zaq123という方が『ある英国人青年が見た“日本軍人”』という記事を投稿されていた。ややもすると忘れがちな「日本人の心」「日本人の魂」を思い起こすためにも、ぜひご一読くだされば幸いです。後半は「国際派日本人養成講座」主催の伊勢雅臣教授の論文です。

                ある英国人青年が見た「日本軍人」

 19世紀の末年、明治33年(1900)6月、北清事変(義和団の乱)に揺れる清国の首都北京でのことである。当時西徳二郎公使(昭和20年3月硫黄島で戦死した西竹一中佐:バロン西の父)のもとで駐清公使館付武官をつとめていた柴五郎陸軍砲兵中佐は、血が流れ硝煙漂いはじめた混乱の北京において、日本人はもちろん列強各国の居留民や清国のキリスト教徒たちを暴徒の攻撃から守り抜くため、北京篭城連合軍の一角をになう事になった。

 元軍人で、イギリス貴族の出である外交官クラウド・マックスウェル・マクドナルド駐清英国公使がその格・実戦経験から総指揮官に選任され、人員・武器・弾薬はもちろん食糧にも事欠くなか困難な篭城戦が始まった。戦いが始まって数日、柴中佐の水際立った指揮、彼が率いる僅かな日本兵と日本人義勇兵(後の外相石井菊次郎や後の東京帝大教授で中国哲学の泰斗服部宇之吉らが参加していた)の厳正な規律と勇気、瞠目するような敢闘ぶりは、篭城戦をともに戦う列国の兵士、居留民たちすべてを驚かさずにはおかなかった。

 そしてその驚きは、時を経ずして厚い信頼へと変わり、柴は篭城軍の実質的な野戦指揮官として、各国の軍人、居留民から仰ぎ見られるようになっていく。柴中佐と日本軍人、義勇兵たちをすぐ側で見ていたイギリス人青年ウィールの手記を引用する。

 ‥‥日本人の勇敢さは、このころになると伝説以上のものとなっていた。しかも彼らは深傷(ふかで)を負っても、呻き声ひとつ立てない。あるイギリスの義勇兵は、隣りの銃眼に立っている日本兵の頭部を、銃弾が掠めたのを見た。真っ赤な血が飛び散った。しかし彼は、後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもなかった。「くそっ!」と叫んだ彼は、手拭いを腰から取り出すとやおら鉢巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように、あいかわらず敵の監視を続けていた。ヨーロッパ人の眼には、それは異様な出来事に映った。人間業とは、とうてい思えなかった。

 また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりはしなかった。彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。

 イギリス公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。日本兵の負傷者たちのところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。ながい篭城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように締めつけ、雰囲気はとかく陰惨になりがちだった。なかには明らかに発狂の症状を示す者もいた。だから彼女たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった‥‥

 八月、ようやく駆けつけてきた日本を含む八カ国合同の救援軍(英・米・露・仏・独・墺・伊)により北京は占領され、秩序は戻るかに見えたが、列国の救援軍はロシア軍を筆頭に略奪者と化した。ただ日本軍のみを例外として。

 日本軍に非行がなく、日本軍が占領した区域の治安のよさは、北京市民だけでなく連合軍の間でも評判となり、柴中佐のもとへ教えを請うため視察に来る外国の指揮官もいた。8月14日午後、北京入城後最初の列国指揮官会議がロシア公使館において開催され、日本からは福島安正少将、柴中佐らが参加した。席上、篭城軍の総指揮官をつとめたマクドナルド英国公使が篭城の経過について報告した。そしてその報告の最後に、彼はこう付け加えたのである。

「北京篭城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

 柴中佐と、彼が率いた日本兵、日本人義勇兵達は、幾多の犠牲に苦しみながらも、見事に危機を克服し、大任を果たしたのだ。柴五郎の名は、“リュウトナンコロネル・シバ(柴中佐)”として世界に轟き、大きな賞賛の的となり、世界各国から続々と勲章が授与された。しかし柴にとっては、それらの賞賛・名誉は義勇兵を含む日本兵すべてに与えられたものなのである。柴は、そして戦いに参加した日本兵、日本人義勇兵達すべては、欧米人に伍して戦い日本人の誇りを汚さなかったことが世界に認められ、感涙に咽び、心から喜びあった。

人物探訪:コロネル・シバ

〜1900年北京での多国籍軍司令官。義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦

1.唐突な日英同盟締結の背景

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

2.義和団の地鳴り

 1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京−天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

3.籠城計画

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

4.義和団の来襲

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4、5百人の義和団が襲いかかった。おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍 と共に自衛に立ち上がった。 

ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(2) ← クリックすると(2)につづきます。


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shiraty5027

閉じる コメント(4)

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こんにちわ、「守城の人」という本で彼のことを知りました。
彼こそまさに教科書に載せたい日本人ですよね
[http://diarynote.jp/d/34813/20050630.html
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BA%94%E9%83%8E

2008/9/22(月) 午後 7:51 ure*ruh**oshi

ヒロシ様。
そうですね。
しかし柴五郎中佐を「彼」と呼ぶのは
少し馴れ馴れしく不謹慎ではないでしょうか。

2008/9/22(月) 午後 9:09 shiraty5027

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はじめまして。恐れながらjohnkimなる方にお仲間にさせていただきました。私も日韓問題について駄文を掲載しています。今後ともよろしく。

2008/10/3(金) 午後 4:23 コロスケ

コロスケさま。
ご訪問及びコメントありがとうございました。
頑張ってください。

2008/10/3(金) 午後 8:08 shiraty5027


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