安達二十三中将 (三)
オーストラリア軍は、東ニューギニア東南ポートモレスビー方面から北東進して、サエ・サラモア地区に圧迫を加えていたが、昭和十八年六月三十日、サラモア南方のナッソウ湾に米軍第百六十二連隊が上陸した。
第五十一師団は、危険に直面した。師団に増援しようにも、制空権、制海権は敵の手中にある。かろうじて北岸に到着できても、サラモアに行くには標高三千メートル級の高峰が折り重なるフィニステル山脈を横断せねばならない。
すでに兵力減少していた第五十一師団は、七月二十日には総計三千二百五十人、うち戦闘要員二千五百八十人となった。しかも、弾薬、食料ともに乏しく、糧食の貯蔵量は一日百人平均の運送で二日分が維持されているにすぎず、砲弾は山砲の六百発が最も多く、十センチ加農砲に至っては、わずか五発という有様であった。
安達中将は八月二日、ラエに飛んで戦闘を指揮した。特に第五十一師団長中野中将にたいして、私信をおくって持久を要求した。
「師団は長期にわたり、大敵によく抗戦、サラモアを固守せり。感謝するところなり。然れども、該地の重要性にかんがみ、かのスターリングラードにおけるソ連軍のごとく、最後まで固持すべきを希望す」
安達中将は、第五十一師団がどのような苦境にあるかはよく知っている。だから、あえて命令ではなく、私信で激励した。命令なら、うっかり後退すればたちまち命令違反となり、処罰の対象になるが、私信であれば融通がきく。また、「スターリングラードのソ連軍のごとく」という表現には、ソ連軍が持久に徹して頑張ったように、決して玉砕突撃を急ぐな、という意味が含まれている。
安達中将独特の細慮に満ちた指揮法であり、第五十一師団は感激した。
「師団ノ任務ハ『サラモア』ヲ確保スルニ在リ‥‥之ヲ保持シ得サルトキハ‥‥軍旗ハ焼キ奉リ病兵ニ至ル迄立チ上リ切リ死ノ覚悟ナリ、生キテ捕虜トナルモノ一兵モアルヘカラス‥‥」
と、師団長中野中将は、むしろ、安達中将の温かい心根に感奮して決死の覚悟を部下に求め、第五十一師団の残兵たちも生米をかじり、粉味噌をなめながら、銃をにぎりつづけた。
だが、九月四日、新たにG・ウッテン少将のオーストラリア第九師団がラエ東方約二十キロのブソ河口に上陸し、五日にはG・ベイジー少将指揮のオーストラリア第七師団が、ラエ西北西約三十キロのナザブ平原に降下した。
もはや、第五十一師団の命運は尽きた、とみなすべきである。中野中将は佐賀生まれである。幕僚の起案書には、いつも「よかろうたい」と泰然とうなずくだけであったが、この時期には、作戦参謀の後退持久戦案に首をふった。
「もう俺もがまんできぬ。この辺で残兵力を終結して斬り込もうじゃないか」
飢えと病によろめく部下に、抵抗力は乏しい。坐して砲爆弾に吹き飛ばされ、切り裂かれる最期は目に見えている。ならば軍人らしい死を与えるべきであろう。はじめてきっぱりと幕僚の献言を拒否する中野中将に、参謀たちも粛然と頭を垂れたが、そのとき、安達中将の第十八軍命令が受信された。撤退せよ、という。
中野中将も幕僚たちも「心の動揺を覚えた」。玉砕の決意を固めて、むしろ、解放感を感じていたからである。だが、一兵でも多く生存せよ、という安達中将の温情もよく分かる。安達中将は、後退を援護するために、第二十師団の一部をマダンから派遣する、とも伝えてきている。
中野中将は、約四千メートルの高峰サラワケットを越えて、北岸に避退することにした。
第五十一師団地獄の退却路<水色の線>(昭和18年9月14日から山脈越えに40日間、さらにマダンまで400km)
(四)につづく
shiraty5027
|
これが牟田口廉也の場合、師団長が攻勢に反対して軍司令官が芸者遊びしながら前進せよですからね。
なのにニューギニアもインパールも「無能で非道な日本軍」と宣伝するマスゴミの糞虫どもは靖国様の祟りで皆死んで欲しいものです。
特に今年の夏はNHKが突出していました。8月は北京五輪があったので7月末に反日特番を集中。というのが奴らの本性丸出しでしたけど。
2008/10/25(土) 午前 10:50 [ ミリばん ]
ミリばん様
日本は戦後政策により歴史を捻じ曲げられてきました。その呪縛から放れられないでいるのが、日本のメディアなのでしょう。さらに、その呪縛をあえて脱しようとしないのは、明らかに悪意に満ちたイデオロギーがあるからだと思います。やはり天誅ですね。
2008/10/25(土) 午前 11:09