乃木希典は名将?それとも愚将?(前編)
乃木大将については評価が分かれるところである。私はこれまで日露戦争に関する小説では、司馬遼太郎の『坂の上の雲』と吉村昭の『海の史劇』しか読んだ事がないので、乃木大将に対する評価は極めて低い。やはり書物による影響は恐ろしい。
ここに『日露戦争』(読売新聞・1974)という写真集がある。米国人バートン・ホームズという人が撮った着色写真集である。もちろん今でいうフォト・ジャーナリストなどではない。まだそんなハイカラな時代ではないのだ。その写真集を見ると、なんと乃木大将率いる第三軍の兵士たちが累々と横たわる死屍の写真の横に、乃木以下、第三軍の参謀たちがニコニコとワインを囲む写真(後編に写真あり)が写っているのである。くそ〜、あの乃木のクソ爺と無能な参謀どもめが‥‥、イタズラにたくさんの将兵を犬死させておきながら‥‥いやもとい。
やはり公平を期するために、乃木希典の異なる評価を同じく『日露戦争』からそのまま引用してみたい。
乃木希典ボロクソ派代表・司馬遼太郎 「旅順と日本の近代の愚かさ」
日露戦争における旅順要塞の攻撃というのは、日本が西洋の思想と、知識でもってでなく、肉体でもって激突した最初の体験といってもいい。
じつに惨烈な戦いになった。攻防255日という長期間、日本兵は死につづけ、最後に守将ステッセル中将の降伏を見るまでは、この攻略を担当した乃木軍(第三軍)は、戦術的勝敗としては負けつづけた。
作戦担当機関の乃木軍司令部は、攻城戦らしい作戦を一度も樹てたことがなく、当時の日本軍としては、ふんだんに火砲をもたされていながら、機略的に効果のある砲兵の用兵をせず、ただむやみに歩兵を要塞にむかって突撃させ、要塞砲と機関銃の餌食にすることをつづけたという戦いである。
無能な軍人乃木希典
軍人というのが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんなばかな戦争指導をしたのか、いま考えても薄気味悪いほどの無能さというほかない。
乃木希典は三十代の終りごろ、少将のときにドイツの参謀本部に留学し戦術の勉強をしている。そのとき要塞攻撃についても習ったはずであり、げんにフランスの要塞の一部模型がベルリンにあり、見学もしたといわれる。
乃木は日本の軍人が多くそうであるように、兵をよろこんで死地に投ぜしめる統率者としての精神修養を十分以上にかさねていたようであったが、近代戦に対する専門家としての勉強については、それをやった形跡がほとんどない。
ドイツ留学を終えて帰国したときに提出した報告の論文が軍人の服装論であったというのは、この人を象徴してるようでもある。
旅順要塞については、ほとんど諜報資料というものがなかった。しかし、ロシア人が要塞を設計する名人であり、要塞の防御力については、執念深いほどに厚くすることなどを考えれば、想像がつくはずであった。
要塞攻撃には、攻城砲をふんだんに用いる以外にないということは自明のことなのだが、この砲兵の用法について乃木軍はみずから深刻に、独創的に考えたという形跡はまったくない。
当初、海軍が、艦砲を外して揚陸させるからお使いください、と申し入れたときも、乃木軍司令部は
「陸軍でやりますから」
と、断ってしまっているのである。海軍の艦砲は小さな艦の副砲程度のものでも陸で使えば堂々たる重砲になり得るわけで、いくら砲があっても足りないというこの作戦に海軍からの申し出を断るのは愚というよりほかない。
もっとも後になって海軍の申し入れを受けているのだが、当初から的確な攻撃プランをもっていれば、その案の核心に海軍砲を据えることができるわけで、あとから参加した海軍砲は結果は補助的な役割しか与えられず、十分な威力を発揮できなかった。
第一回の総攻撃は死体の山を築くのみで完全に失敗していたが、それでも敵の要塞の火網をどんどんとくぐりぬけた運のいい小部隊が、要塞の背後ともいうべき望台にまで到着し、岩かげにとりついていたのである。
その岩かげの小部隊に対しもっと増援をして旅順市街に突入させれば、状況が変っていたことはたしかで、しかもその岩かげの小部隊を指揮していたのは、下級将校ではなく、旅団長の一戸兵衛少将であった。かれは戟術眠からみて、白分のこの小部隊を増強してくれればなんとかなると思っていたのに、後方の軍司令部から退却命令がきたのである。
安全圏にいた司令部
一戸兵衛は、のちに
「前線の事情にそぐわない命令を、軍司令部がどんどん出してくるというのが、自分にはよくわからなかった。しかし、のちに軍司令部にゆくにおよんで事情がわかった」
と語っているが、その事情というのは、まず軍司令部は絶対安全圏の後方にさがりすぎていて、彼我の状況にくらかったことであった。
次いで軍司令部軍規がみだれていて、各参謀が十分に意見をのべつくすという雰囲気から遠かったことであり、さらには、前線の状況を参謀みずからが見にゆくという例が、この軍司令部にかぎってなかったということである。
これらのことは攻略戦の最後の段階で児玉源太郎が指摘している。
要塞攻撃は、弱点を見出し、そこに攻撃力を集中するというやり方でなければならない。岩を割るときに条理を見出L、そこに黎を入れてゆくということと同じである。
が、乃木軍司令部はこの肝心の弱点さがしについておよそ疎漏であった。第一線からの情報を総合すればほぼ見当がつきそうなものだが、参謀たちが各前線に身を挺して行くことが絶無だったため、弱点をさがす感覚が鈍感なままだったのであろう。
旅順要塞の弱点は二〇三高地で、ここを発見するのは攻略の最終段階でやってくる児玉源太郎であったが、じつは攻略の当初から、要塞を海上からみている海軍側が、「二〇三高地は、どうやらあまり防御がほどこされていないだけでなく、ここを占領すれば旅順港を見おろすことができる。従って二〇三高地に大砲をひきあげれば、港内のロシア軍艦をうち沈めることができる」
と申し入れているのに、乃木軍司令部は黙殺してしまった。
乃木軍がやった方法で効果的だったのは、要塞攻撃の正攻法のひとつである坑道掘削による敵砲台の爆破ぐらいのもので、後はことごとく失敗といってよく、無慮六万人という大犠牲をはらったのみであった。
これだけのばかばかしい失敗が、戦後、国民の前で検討され解剖されることなく、それをむしろ壮烈悲愴という文学的情景として国民にうけわたされたところにいかにも日本らしい特赦があり、そのことが、張鼓峰、ノモンハン、太平洋戦争という性懲りもない擦りかえしをやってゆくもとになったのである。
失敗と認めない軍部
私は『殉死』という作品と、『坂の上の雲』という作品を書くについて、書斎の中で二度旅順を経験した。二度ともそれを調べているときに気持が滅入ってきてどうしようもなかった。
この作品をかくときに、昭和十年代の陸軍大学校の教授内容も調べ、それを経た人にもあたって訊いてみたが、旅順攻撃の失敗についての解剖がほどよくしかおこなわれていないことに驚いたことがある。むしろ失敗と認めず、成功とするような雰囲気があり、その雰囲気の中から、日露戦争後の軍部の体質ができあがって行ったのではないかとさえ思えた。この体質の軍部が昭和十年前後に日本を支配したとき、日本そのものを賭け物にして“旅順”へ叩き込んだというのも無理がないような気もするのである。
いま、この未発表の写真をみても、書斎の中で旅順にとりつかれていた頃のことを思い出し、どちらかといえばぞっとする思いだったし、この写真を見せてくれた西本均氏が、原板をかざしている私に感想をいえといったが、言葉のようなものは出なかった。
( 『 週刊読売 』 昭和43年7月21日号より採録 )
shiraty5027
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で、でた〜!
乃木まれすけ・・・・。
後編に期待して寝ます(^_^
2009/2/4(水) 午前 0:57
後ろの6時さん
期待してください(笑)
これ、エプソンの『読んde!!ココ』というので、書物の活字を
こうした記事に変換したんですが、初めてその機能を使いました。
いや〜、便利! 今までは全部タイピングしていたのに!!!
2009/2/4(水) 午前 8:17
OCRソフトですね。昨今の複合機や、スキャナーにはほとんどついていますよ。便利です。
2009/2/4(水) 午後 4:25
こかげさま
そうだったんですか。知りませんでした。
コピー機を買い換えたのが一昨年の12月で、一年も経つのに
このおまけソフトに気がつきませんでした。
今まで時間をかけてタイピングしていた‥‥あれはなんだったのか(涙)
2009/2/4(水) 午後 4:30
司令部が後方に下がりすぎで現況を把握できていないというのは
後に児玉閣下が訪れて頭をかかえたのでも判りますし、乃木将軍の采配はまずいと言えるのではないでしょうか、
司馬史観にどっぷり浸かるのは危険ですが、満州の地で勇猛に戦ってどんどん進軍する中で戦死するのと、203高地での死を比べるなら徴兵された者、その家族からすれば満州を選びたくなるのでは?と思います。戦後の寡黙な将軍の生き方、質素倹約などを読めば「人」として尊敬されるのは判りますが、・・・僭越ながら私の「大将としての評価」は今ひとつです。
ポキッ
2009/2/4(水) 午後 10:58
カンナ姐さん
僕もそう思います。ただ、姐さんもおっしゃっているように、司馬史観だけにどっぷりつかるのは危険だというところに、僕も引っ掛かりがあるのです。個々の事例を挙げて考えると、何て乃木あるいは第三軍参謀たちは不合理なことをやっているのだ! と思いがちですが、そう一概に断じ切れない点が僕にはあるのです。煮え切らなくてすみません。
傑作ありがとうございました。
2009/2/4(水) 午後 11:32
「城攻めは下策とは孫子の昔からのこと。誰がやっても大損害は免れまい。とは言え、も少し何とかなった筈だ。
一方で乃木大将の自決前の写真というのは圧巻だし、「一人息子と泣いては済まぬ。二人亡くした方もある。」と狂歌に唱われたと言うのもありそうな話。
その一方でそんな情実と、軍人としての能力の評価は全く別の話とも・・・
とりとめもないコメントで申し訳ない。
とりあえず、私にとっての乃木大将は、一筋縄ではいかないようです。
2009/2/5(木) 午前 0:52 [ ZERO ]
ZEROさま
乃木さんの評価はほんとうに定まらないですね。
僕は、平時の将軍だったら合格、戦時の将軍としては失格だと
思っています。
2009/2/5(木) 午前 8:55
一つ訂正
第三軍司令部の位置は前線から六キロで要塞砲の射程圏内でした
遠いどころか思いっきり近いです
司馬さんの創作です。乃木を貶める為としか思えない。
因みに文句を言ったという満州軍総司令部は前線から六キロどころか10数キロも離れた所に司令部を置いています
第三軍を怒れる立場じゃないだろとつっこみたくなります
実際黒溝台や首山保で司令部が遠いため前線の報告を信じる持論に固執しピンチを迎えたりしてます
こいつらの方を叩けよ司馬遼太郎!
2011/2/3(木) 午後 9:10 [ ths*h*even ]
当ブログでこの記事を紹介させてもらっています。
http://blog.m.livedoor.jp/tacodayo/article/5075710?guid=ON
http://blog.m.livedoor.jp/tacodayo/article/5082063?guid=ON
タコ自身は、乃木大将とその幕僚は第二次大戦さえも先取りした先見の妙のある有能な軍人だと思っています。
ではでは (^.^)
2012/1/16(月) 午後 1:05 [ タコ ]
旅順要塞攻防戦を語るなら、以下の本は必読です。
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2012/1/16(月) 午後 9:13 [ タコ ]