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この碑の建立を知った米軍横田基地広報部は「日本以外の国で敵の兵士を敬い、慰霊する行事はないだろう。日本人の高い品格と日米の友好の絆を表すものだ」と歓迎のコメントを寄せたという。
shiraty5027
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小学校4年生で敗戦。そのころの「通信簿」もその引出しから出てきたので見てみると、これが実に興味深い。敗戦前までの担任の所見欄はすべて文語口調。敗戦後は一転して口語口調になっている。GHQの占領政策によって国体が骨抜きにされていく過程が、こんな言葉遣い一つとってもひしひしと伝わってくるのが恨めしい。 敗戦の時、母は「米兵がやって来たら、我々は皆八つ裂きにされるらしい」という大人たちの噂に、ひとり怯え、家の片隅で泣いていたという。 米国による占領政策は今なお続いている。我々はそのことを忘れてはならない。 shiraty5027 |
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「ずいぶん以前から、横田夫妻を第三国で孫娘に会わせる、場合によってはめぐみさんに会わせる、といった話が水面下であった。モンゴルにめぐみさんがいたとは考えにくいが、横田夫妻がモンゴルに滞在中めぐみさんと電話で話したとか、現在のめぐみさんのメッセージにご両親が接したのではないかと推測される」 これは、荒木和博氏(特定失踪者問題調査会代表)の感触である。 「他にも色々あるが、4日間も言葉が通じない孫娘と一緒にいて、ずーっと話すことができるのだろうか」という素朴な疑問からである。補足をすると、日本側からは外務省の通訳1名が同行している。一方孫娘ウンギョンさん側は、父親とひ孫といった家族だけである。もちろん日本語が話せるわけではない。たとえ日本側から通訳が同行していたとしても、4日間もいったい何を話せたというのか。これには何か大きな裏がありそうだ。 やはり、荒木氏の推測どおり、めぐみさんと横田夫妻との間に、何らかの接触があったのに違いない。 荒木氏は、昭和38年能登半島沖で拉致された寺越武志氏を例に、「寺越武志さんの母はこれまで100回以上平壌に行って息子武志さんに会っているが、会うことができる代わりに一切拉致を口にすることも、日本に帰って来いとも言えない状況にある。めぐみさんも下手をすればそういう状況に置かれかねない。また、めぐみさんが平壌に無事住んでいるということで安心してしまったら、他の多くの拉致被害者を切り捨てるということになる可能性もあるのではないか」と懸念されていた。 我が国の与太メディアは、横田夫妻の記者会見で「お孫さんとはどういう話をしたのか」とか、「ひ孫はどんな感じだったか」などと、どうでもいい質問ばかりしていた。荒木氏はそんな与太メディアに対し、この問題の本質を忘れている、と与太メディアの軽薄な立場は理解しながらも厳しく指摘されていた。つまりこの問題の本質は「日本は北朝鮮によって主権を侵害され、多くの日本人が不当に拉致された。孫のウンギョンさんが平壌にいるのも、そのせいなのだ」ということなのである。 横田夫妻の笑顔があるだけに、その背景やその他の拉致被害者が霞んでしまうが、我々は本質を見失ってはならないのである。 与太メディアよ。表層だけの浮ついた報道は、利敵行為、売国行為なんだぞ! 【関連記事】 shiraty5027
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今生きる我々一人が、24代、25代遡ると、祖先が1千万人になると。 室町時代の日本の人口は1千万人。 すると、日本中全部親戚になる、と。 そのうちの一人が欠けたら 今の自分はない。 今の教育は、友達を大事にしなければならないなどと、横の関係ばかりを重視するが 上述した縦の関係は軽視、あるいは無視されているのが現状。 やはり子供たちには、縦の関係をしっかり教えていくべきではないのか。 祖先を敬う気持ち それが大事。 日本人としての自覚は、これが原点。 西川京子先生のお話 大事だな〜。 shiraty5027
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昭和13年秋、ドイツは我が国に対し三国同盟締結を打診してきた。ところが日本は決断できずにいた。つまり、海軍と外務省は仮想敵国をソ連に限定しており、陸軍はソ連以外に英仏を加えたかたちでそれを考えていたからである。そのことで五大臣会議を70回も開いたが、決断できずにいた。 するとドイツはソ連と不可侵条約を締結。時の平沼騏一郎内閣は「国際情勢は複雑怪奇」と言って総辞職。平沼騏一郎というのは、平沼赳夫の養父である。平沼赳夫は立派な人だが、養父は外交音痴のバカであった。もとい。 仲小路は『戦争文化』という雑誌で「日本自身が三国同盟をためらっていることが、ヒトラーをして大敵ソ連との妥協を余儀なくさせた」つまり、日本政府の三国同盟の不決断が、独ソ接近をもたらしたのだというのである。日本自体が世界を動かしたり揺らしたりしているのに、日本にその自覚がないと指摘しているのである。日露戦争が世界に与えた影響が大なのに(特に西洋列強に抑圧されていた国々に)、日本にその自覚がないというのである。まさに仲小路の慧眼である。それは今日の日本外交にも言えることである。 さて、仲小路彰の軍事戦略とはどういうものであったのか。「日本海軍は西へ進むべし。インドを押さえ、第一次大戦以後英米に牛耳られてきた中東イスラム諸国の解放に向かうべし。インドはもちろん、中東諸国は当然日本軍を歓迎、支持するであろう。ドイツのロンメル将軍がスエズ運河まで来ているから、中東で日独軍が合流する。そこでソ連を援助していたアメリカの援助(70パーセント以上イラン経由)を断ち切る。そうすればイギリスを追い払うことができ、ソ連も降伏するか和平を選択するしかない。アメリカは手出しできなくなる。そこで英国と講和を結ぶ」というのが仲小路の戦略である。石原莞爾も絶賛していた。 今の時代から見ると英米は一つに見えるが、大東亜戦争開戦当初はそうではなかった。チャーチルとルーズベルトの出現でそうなったが、早い時期ではそうではなかった。英米は一枚岩ではなかったのである。戦争初期、英国は弱く日本は英国を駆逐していた。1941年12月10日マレー沖海戦で英国が誇る最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」、巡洋戦艦「レパルス」をあっという間に撃沈したことや、マレー作戦での山下泰文大将の活躍等でもそれは明らかなのである。チャーチルは自伝の中で、生涯唯一恐れたのは日本軍であったと告白している。 「日本は直接米国に対しその和親を否定すべき理由は何ら見出されず、尚、太平洋・東洋方面においても米国の権益と何ら侵害・抵触・衝突するところはない。従って米国との親近は絶対に必要であり、日米は不可侵条約を結ぶべき」というのが、仲小路の考えであった。確かに日本が米国と戦う直接的理由は何もなかったのである。 しかし無謀にも日本は米国との戦を開いた。山本五十六の真珠湾攻撃が国を破滅させる愚行の中の愚行であったことが、軍事学的に最近検証されだしている。つまり、海軍が対米戦を急ぎ、西進しなければならなかったのに東進してしまったため、ソロモン諸島にまで兵力を薄くばらまかなければならない羽目になり、ガダルカナル戦までやらなければならない愚かな事態になってしまったのである。西進するか東進するかは皇国の興廃を決する分岐点であった。なのに愚かにも山本をはじめとする帝国海軍は、後者を選んでしまったのである。山本五十六が連合国のスパイであったといわれる所以である。酒と女と博打が大好きな山本が、日本を亡国に導いてしまったのである。 余談であるが、日本海海戦の時、東郷平八郎元帥は、「Z旗」を揚げた。この意味は、A〜Zをイメージすると分かるが、「Z」というのは「最後」という意味である。つまり、ポーツマス講和条約も視野に入れた最後の決戦という意味である。ところが、帝国海軍は太平洋戦争中「Z旗」を3度も揚げた。何を考えているのか。つまり当時の帝国海軍は、何も考えていなかった、ということなのである。 仲小路は漸減邀撃作戦(ざんげんようげきさくせん)というのも末次信正と考案していた。 漸減邀撃作戦というのは、日本がもし万が一米国と戦うことになった場合、国防圏を日本周辺海域に限定して敵をできるだけ引き付けて撃つ作戦で、日本本土と蘭領インドシナとのルートを結ぶ線(シーレーン)を国防圏とし、西太平洋には聖域を広げない、米大陸への攻撃は考えない、五分五分の引き分けに持ち込むのが最初からの狙い、というものであった。 なんという慧眼。末次信正は昭和12年に予備役になり、その後海軍の中枢に返り咲くことはなかったが、もし彼が開戦時健在であったなら、山本五十六の暴走を食い止めることができたであろうといわれている。仲小路といい末次といい、ここ一番という時に軍の中枢から離れさせられていたのは、我が国の悲劇である。 これも日本の愚かな官僚システムのせいか‥‥。 仲小路はその後も卓越した予想、たとえば「対英米戦が短期で終われば、必ず第2回戦がある、今のうちからそれに備えろ」など、実際、今日の日米経済戦争や米国による執拗な日本バッシング等を予見しているのである。 この人をして天才といわず、誰を天才といおうか。 日本は明治大学ラグビー部のように、逸材をことごとく潰してきた歴史があるように思う。 shiraty5027
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