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大きな活字でご覧になるにはこちらをクリックしてください。 ニミッツ提督と東郷元帥 この敵将と東郷平八郎元帥とのつながりは意外に深い。1905年(明治38年夏)当時ニミッツ少尉候補生は114人中7番の成績で米海軍兵学校を卒業すると、アジア艦隊所属の軍艦「オハイオ」に乗り込み、アジア方面練習航海に出発した。横須賀に到着すると、練習艦隊の士官、候補生の代表は、日露戦争祝賀園遊会に招待された。 園遊会には多くの日本の将軍、提督たちが集まっていたが、ニミッツ少尉候補生ら米海軍士官が一様に捜し求めたのは、日本海海戦の名将東郷平八郎元帥の姿であった。 「日本海海戦こそ、洋の東西をとわず海戦の手本であり、教科書である。私の生涯は、この教科書をマスターし、この手本を凌ぐ戦をおこないたいという念願に燃えつづけたといっていい」ニミッツ提督は、1963年氏を訪ねた作家故児島襄氏に、東郷元帥を礼賛しながらそう語ったという。 園遊会の日、東郷元帥がニミッツ提督たち少尉候補生が坐るテントに近づく姿を見たとき、ニミッツ候補生は思わず立ち上がり、興奮に顔を赤らめながら、東郷元帥に敬礼して叫んだ。 「トウゴウ提督閣下、われわれは米合衆国海軍少尉候補生であります。もし、閣下が数分の時間を割いてわれわれに教訓をお与えくださるならば、われわれの無上の光栄と喜びでございます‥‥」 東郷元帥は立ち止まり、長身の若者を見上げた。無論、東郷元帥にはこの若者が後に元帥の後輩たちと日本海軍を撃破する米海軍指揮官になるとは予見できず、ニミッツ候補生にしても、そのような役割が自分のものになるとは、これまた夢想もできなかったはずである。 だが東郷元帥は何かを感じたらしく、副官に耳うちするとニミッツ候補生にうなずき、直立して待つ候補生たちのテントに入ってきた。 「そのとき、トウゴウ提督が何を話してくれたかは覚えていない。しかし、60年前の提督の姿は今でも私の眼の底に焼きついている」 ニミッツ提督はさらに、1934年、アジア艦隊旗艦「オーガスタ」艦長のとき、再び日本を訪ね、しかも東郷元帥の国葬に参列する光栄に恵まれるのである。 ニミッツ提督は太平洋戦争中、ハワイ、ついでグアム島に司令部を置き、陸上から指揮をつづけて、第一線に出ることはなかった。海戦を見る機会もなかった。特に元帥としては「50年間夢見てきた東郷提督の後輩たちと、大砲を撃ち合う日米艦隊決戦」が生起しなかったことが残念だったという。 「もしそのようなチャンスがあれば、必ず直接指揮したが‥‥海軍軍人として、それが私の心残りといえるだろう」 戦後、ニミッツ提督は日本との友好関係修復と尊敬する東郷平八郎元帥関係施設の復興にも貢献した。「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知ったニミッツはこれに激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止した。また、自身の著作の原稿料を東郷元帥記念保存基金に全額寄付したり、「三笠」保存のために、個人的に2万円を寄付したりもした。他にもアメリカ海軍を動かして、揚陸艦の廃艦1隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約3000万円を充てさせた。「三笠」の復興総工費が約1億8000万円であるから、この運動は大きな助けとなったことはいうまでもない。 1961年5月27日に無事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際、アメリカ海軍代表のトーリー少将は「東郷元帥の大いなる崇敬者にして弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹している。また、ニミッツの好意に返礼すべく1972年テキサス州に『アドミラル・ニミッツ・センター』建設が計画されたとき日本がこれに協力、1976年5月8日に同センターの日本庭園贈呈式が行われた。 1960年には回戦録『The Great Sea War』をE.B.ポッターと共同で執筆。1962年に『ニミッツの太平洋海戦史』の邦題で日本語版が出版されている。この本の印税はポッターの快諾を得てアメリカ海軍の名で東郷神社再建奉賛会に寄贈されている。 ニミッツ元帥は、1965年に脳卒中にかかりアメリカ海軍病院に入院、後に肺炎を併発された。死期を悟ったニミッツ元帥は1966年1月に退院して自宅に戻り、1966年2月20日の夜に自宅で死去された。享年81。敵味方を超えた軍人としての師弟関係‥‥。東郷元帥とともに心から哀悼の意を表したい。 参 考 『指揮官』児島襄(文芸春秋) |
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2007年06月09日
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大きな活字でご覧になるにはこちらをクリックしてください。 乃木大将は「名将」「愚将」どっち? まず「愚将派」が、乃木を評価しない最大の理由としては、二百三高地を自身が率いる第三軍単独で陥落することができず、攻防255日間、いたずらに部下を戦死させ続けたというものである。機略的に効果のある砲兵の用兵をせず、ただむやみに難攻不落の要塞に突撃させ、敵機関銃の餌食にさせた(戦死者約6万人)。当初海軍が艦砲を外して揚陸させるからお使い下さいと申し出たときも、乃木は「陸軍でやりますから」と言って海軍側の申し出を断ったという。また、第三軍の司令部は前線から遠く離れたところにあり、現場の状況を掌握せずに指揮をしていたということも「無策」「無能」という評価を受ける原因となっている。 結局、終盤満州軍総司令部児玉源太郎参謀次長の応援を受けなければ、二百三高地は陥落できなかった。しかも児玉は半日でこの高地を落とすのである。乃木のこれだけの失敗が、戦後国民の前で検討され解剖されることなく、それをむしろ壮烈悲壮という文学的情景として受け取られたところに、いかにも日本人らしい特徴がある。二百三高地の激戦で乃木将軍は二人の息子を失うが「国家に殉ずることができて誇りに思う」というようなことを述べたことがまた美談として喧伝され、“万朝報”には「一人息子を泣いてはすまぬ、二人なくした方もある」という都都逸を載せて、読者の心を捉えていたという。そうした情緒的な国民的昂揚、そのことが張鼓峰、ノモハン、太平洋戦争という性懲りもない繰り返しをやっていくもとになったと酷評している。失敗を認めず、それを成功とするような雰囲気がすでに軍内部に芽生えており、その雰囲気の中から日露戦争後の日本軍部の体質が出来上がっていったというのである。 また乃木個人の軍人としての資質を疑うものも多い。たとえばドイツ留学を終えて帰国したとき、提出した報告の論文が「軍人の服装論」であったということも嘲笑の種とされている。近代戦に対する専門家としての勉強をしてきた形跡がほとんどないというのである。彼は詩歌を弄ぶような将軍であったから、軍人としてよりもむしろ文筆家に向いていた、とその評価はいたって芳しくない。 一方、乃木将軍を評価する側はどうだろうか。人間としては生真面目で真っ正直な人柄。最初から児玉を用いても、当時の日本の旅順に対する知識や準備をもっては、苦戦は免れられなかっただろうという。日清戦争のときも旅順は難攻不落の大要塞といわれていて、世界の軍事専門家は十万の強兵をもって攻めても、半年かからなければ陥落しないだろうといっていた。ロシアが旅順を租借してから10年。その間巨額の費用と多くの人々の頭脳と努力を惜しみなく使って、最新科学の粋を尽くして造り上げた大要塞を、大本営は舐めていたというのである。 大本営は当初、旅順は一軍団で取り囲んでおいて、主力はどんどん先に進めばいいという程度にしか考えてなかったという。児玉源太郎参謀長も同じ考えであった。海軍も陸戦隊だけで片付けるような安易な考えであった。要塞の強固な守り、敵の砲の数や人員の数などまったく考慮していなかったという。 乃木の第三軍が内地を出発するとき、乃木は大本営から「第三軍は速やかに旅順要塞を攻略し、攻略後は直ちに北進して遼陽の戦闘に参加すべし」と命令を受けていた。したがって、生真面目な乃木としては一気呵成の強襲戦法をとるしかなかった。乃木のとった肉弾戦法は、大本営の要求を満たすために損失を承知でやるしかなかったというのである。後になって「あのとき、ああすればよかった、こうすればよかった、随分ヘタな戦をしたものだ」というのは、責任がない勝手な者の言い分であり、結果だけを踏まえた無責任論だという。巨木は斧の一撃では倒せない。旅順という大木は、乃木の第三軍の死闘の乱打によってひどく傾いていた。そこへ児玉が来て力を貸して伐り倒した。この点を知らなければ旅順戦は理解できないという。 また擁護論者は、将軍の器というものは作戦も大事だが、それよりも部下の信望をあつめることが大切だという。この人のためなら喜んで死のうと思う部下の信頼。そういった“徳”が必要なのであり、その点乃木はカリスマ的な存在であったという。確かに乃木の名声はロシアにまで轟き、“水師営の会見”では乃木は降将ステッセルに帯剣を許し、そしてステッセルにとって後々まで恥が残る写真をとらせなかったことでも有名である。このことが日本の武士道を広く海外にまで知らしめることとなり、一躍欧米でも彼の名声を博することとなった。当時の新聞が行った軍人人気投票において、二位の東郷平八郎に大差をつけて勝つほどであったという。 こうしてみてくると「乃木愚将論者」は軍人としての物理的合理的な能力や判断力を問題にしているのに対し、「乃木名将論者」は軍人としてよりもむしろ人間としての精神性カリスマ性を重んじているように思える。有能な指揮官としては、合理的判断能力が重要なのか、はたまた精神を奮い立たせるカリスマ性が重要なのか‥‥。無論、両者を兼ね備えた指揮官こそが理想的なのであるが、この場合果たして賢明な諸氏はどちらを支持しますか ? |
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