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占守島は、北方諸島の最北端に位置する。面積でいうと琵琶湖程度の小さな島である。海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、樹高1mくらいの這松や榛の木が群生している。夏は15度で濃霧が発生し、冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカムチャッカ半島、東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本の最北端の島である。 昨年末、映画『硫黄島からの手紙』によって、硫黄島という南洋諸島の小さな島は、世界的に知られる島となった。硫黄島の戦いは寡少な兵力を持ちながら、日本本土への米軍の上陸を少しでも遅らせるため、「5日間で占領」するつもりだった米軍の思惑を大きく裏切り、一ヶ月も釘付けにし、日本軍を上回る犠牲を強いた戦いだった。 ところが、日本の最南端で行われたこの戦闘と同様、占守島という日本最北端の島でもまた、日本を守るための激しい戦いが行われたことを知る人は、硫黄島のそれに比べて余りにも少ない。それが「占守島の戦い」である。日本はアリューシャン列島を西進してくる米軍の侵攻に備えて、戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていた。すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、米軍によって陥落していた。 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、日本軍の無条件武装解除が決定した。占守島でもこの命令が伝わったとき、兵士たちは激しく動揺し、自決する者も出るほどであった。しかし、長かった苦しい戦いが終わり、極寒の島から故郷に帰れる安堵から、兵士たちも笑顔を取り戻し、武器の処分など撤退準備が始まっていた。 しかし8月18日未明、事態が急変する。ソ連軍が突如として侵攻してきたのである。占守島の対岸にあるロシア領、ロパトカ岬から長距離射程重砲の砲撃が始まり、現場の通信所からは「海上にエンジン音聞こゆ」と急報が入った。すでに戦争は終結したはずで、兵士たちも家族の待つ故郷に帰れるつもりでいたし、武装も解除していた。しかし、ここで自分たちが戦わなければ日本はどうなってしまうのか‥‥。 師団長、堤不夾貴(つつみふさき)中将は一旦は解除した武装を急遽揃え、戦闘を決意した。 その後も現場の通信所からは「敵輸送船団らしきものを発見!」「敵上陸用舟艇を発見!」「敵上陸、兵力数千人!」との急報が相次ぎ、不意を突かれた日本軍は間に合わせの準備で各個戦闘を余儀なくされた。(ちなみにこの段階では、当然アメリカ軍の侵攻と考えられていた。) まず、ソ連軍の上陸地点である北部の竹田浜にいた村上大隊が自衛戦闘を開始した。当時の「水際撃滅作戦」の思想にしたがって、沿岸に多数配備されていた野砲や重砲などの大砲が火を吹いた。対岸のロパトカ砲台からもソ連軍が12センチカノン砲5門で砲撃してきたが、日本軍の重砲2門がこれを20分で沈黙させ、他にも敵船を13隻撃沈するなど大活躍をした。 圧倒的なソ連軍2万に対し、北部の村上大隊はわずか600名。 物量に飲み込まれ、全滅する部隊も続出。ソ連軍の上陸を許してしまったころ、濃霧の中で南部から時速60キロで駆けつけた援軍の戦車隊が間に合い、日本軍はソ連軍を再び押し返すことに成功する。 この戦車第11連隊は、「十一」を合わせて「士」、通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮をしていた。池田大佐は、学徒兵には「健康を第一とし、具合が悪くなったらすぐに申し出よ」と気遣い、下着の洗濯など身の回りのことは全て自分で行なう人であった。洗濯をする当番兵が申し訳なさそうにしていると
集結した戦車隊の部下を前に、池田大佐は問うた。
全員が、喚声と共に即座に手を挙げた。
池田大佐は、部隊の先頭に立って敵陣に突撃した。突破されかけていた戦線を膠着させたこの「士魂部隊」の功績は大きいものであった。しかしその代償として、士魂部隊は戦車27輌が撃破され、池田大佐をはじめ96名がこの戦いで戦死したのである。 話は戻るが、島に7機だけ残っていた航空機部隊も発進した。魚雷はすでに処分してしまっていたため、通常の爆弾や対戦車用炸裂弾を搭載しての攻撃。わずか7機で、輸送船2隻、駆逐艦2隻、艦種不明1隻撃沈、輸送船2隻撃破という大戦果を収めた。ソ連軍も10機ほど戦闘機を出撃させたが、戦車隊の懸命な防空射撃はこれを寄せ付けなかった。 これら部隊の奮戦によって戦闘は次第に日本軍が優勢となり、ソ連軍は海岸付近に追い詰められ、あとわずかの攻撃で日本軍がソ連軍を殲滅という大勢にまでなった。しかしそのとき、札幌の方面軍司令部から「戦闘を停止せよ」との軍命令が届き、停戦交渉を開始せざるを得なくなった。しかしソ連軍は停戦軍使を射殺するなど、一向に攻撃をおさめる気配が無く、戦闘が続行される中、とうとう札幌より「断固停戦すべし」との強い命令がくだり、ようやく21日に交渉が成立した。最終的に武装解除がなされたのは24日であった。日本では、8月15日を終戦の日として扱っているが、その後も祖国を守る戦いは続いていたのである。 ソ連軍の侵攻地における略奪、破壊はすさまじいものがあり、特に女性に対する陵辱は陰惨を極めていた。ベルリンや満州では地獄絵図が繰り広げられていたことを知る占守島司令部は、この占守島にも缶詰工場で働く約400人の若い女子工員がいるのを案じていた。参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者が出る。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」 戦闘のさなか、占守島司令部隊は、島にあった独航船20数隻に女性を乗せることにした。戦闘が終了した後、ソ連兵が血眼になって女性を探し求めたが、女性たちはすでに無事、北海道に着いた後であった。 ソ連軍は北方領土を次々と侵食して行ったが、北海道本島にはすでにアメリカ軍が進駐しており、ソ連による北海道割譲の野望は砕かれた。当初、スターリンは「占守島は一日で占領する」と豪語していたというが、もし占守島が一日で占領されていたら、北海道もソ連の手に落ちていたかも知れない。 島を死守し、民間人を保護し、祖国を守って戦い抜いた兵士たちは、戦闘終了後帰国できるはずが、ソ連に騙され、極寒のシベリアで奴隷労働に従事し多くが命を落とした。ちなみにこの明らかな国際法違反の拉致虐待犯罪による被害者は200万、死者40万とされている。 ようやく抑留から開放され、帰国した彼らを待っていたのは、世間の無関心と反戦平和の風潮で、占守島のことを知る人は全くいなかった。この激闘で、日本軍の死傷者は700〜800名におよび、ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと伝えられている。ソ連政府機関紙の『イズベスチア』は「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べている。 だが我々日本人にとっては、この日を大日本帝国軍における最後の大勝利、栄光の日として記憶したい。世界が忘れてはならない島がある‥‥。これは、映画『硫黄島からの手紙』のキャッチコピーである。しかし、硫黄島と同じく、少なくとも日本人が忘れてはならない島は、この占守島である。家族と国とを思い、侵略者から祖国を守って戦ってくれた彼らの勇気と信念を、我々日本人は決して忘れてはならない。 合 掌。 『氷雪の門』(JPM:1974)という映画がある。この映画は今から約30年前、制作費5億円を超す大作として劇場公開される予定であった。しかし、冷戦の国際政治状況下、ソ連の圧力などにより劇場公開が断念された映画である。 この映画は、占守島と同じように日本が連合国に降伏した後、日本領であった樺太にいきなりソ連軍が侵攻してきたときの実話をもとにした映画である。ソ連軍侵攻の真只中、最後まで通信連絡をとり、若い生命を投げうった真岡郵便局電話交換手9名の、乙女の悲劇を描いた真実の物語である。彼女らは最後の交信に「皆さんこれが最後ですさようなら さようなら」の言葉を残して、静かに青酸カリを飲み職に殉じたのである。 今この映画はDVDとして世に出ている。散逸したフィルムを発掘、劣化していた映像をデジタル処理して復活させたそうである。ぜひこの「北のひめゆり」ともいわれる映画を広く一般に公開してもらいたい。また、今回の記事である「占守島の戦い」もぜひ映画化して、広く世間に公開してもらいたい。 多くの日本人は1945年8月15日を以って日本は終戦を迎えたと思っている。しかし日本の北方では8月15日がまさに開戦の日であった。そのことを我々は忘れてはならない。また、我々の子孫にもそのことをしっかりと伝えていかなければならない。それが我々日本人の使命というものである。 合 掌。 shiraty5027
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2007年08月28日
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