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日本は大東亜戦争を米英を中心とする連合国と戦った。日本の敗戦はその連合軍に降伏をしたわけであって、交戦国ではない韓国(朝鮮)に降伏したのではなかったという歴史的事実が、今日の韓国に欲求不満となって根強く尾を引いているというのだ。ベトナムやインドネシア、インド、その他の被植民国はそれなりに自力で解放・独立を勝ち取ったという“勝利感”があるのに対し、韓国(朝鮮)は他力解放であったため、対日“勝利感”がなく、その鬱憤が過去へのこだわりとなって現在に至っているというのである。スポーツの分野でも、他の国に負けるようなことがあっても絶対に日本にだけは勝たなければならないという滑稽なまでの使命感は、この過去への憤懣やるかたない気持ちを少しでも晴らそうとする悲しい喘ぎだとしている。 韓国(朝鮮)には“恨(ハン)プリ”という観念があるという。“恨(ハン)”というのは他者に対する単なる“恨みつらみ”ではなく、「自ら果たせなかった望みや夢の挫折に対するやるせない感情」「満たされない思いの塊みたいなもの」であるという。“プリ”というのは“解く”という意味らしく、靖国神社反対も一種の歴史的ハンプリが露呈したものだとみる。それにより取り返しがつかない過去に執着し、騒ぎ立てそのことによって溜飲を下げ憂さ晴らしをしているのだという。確かに韓国の反日キャンペーンを見ていると、すべてこの原理が働いているようだ。丁度飲んだくれのオヤジが酒を浴び、大声で泣きわめきながら、変えようのない過去の出来事を持ち出してきては「あれはこうだった、ああだった」と自分に都合にいいように解釈をし、その自分の言葉に酔い、納得して寝てしまうような哀れな構図である。しかしいくらわめき泣き叫ぼうが、過ぎ去った過去の事実を改めるわけには行かない。酒に醒めてはまた“恨プリ”の繰り返し‥‥。 韓国(朝鮮)は日本と戦争をした事実はない。しかし史実を捻じ曲げてでもそうした虚構を作り上げなければ、彼らの“栄光の歴史”は成り立たない。ありもしなかった「光復軍」をでっち上げ、各種の独立運動や抵抗闘争、義挙(反日テロ)を賛美し、独立のために日本と戦ったことにしなければ、彼らの主張する“栄光の歴史”は根底から崩れてしまうのである。「華夷秩序」から発した「小中華思想」「自民族優位主義」という観念が上記の「恨プリ」とあい絡みあって今日の韓国(朝鮮)人の精神を形成しているのである。 韓国人の精神構造を知るうえで、この著書は大変参考になります。ぜひ、ご一読ください。 紹介文献 『“日本離れ”できない韓国』黒田勝弘(文芸新書) |
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2007年01月31日
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ソウルの鍾路(チョンノ)区恵化洞(ヘファドン)というところに『牧童』(モクトン)という焼肉店がある。そこの女将さんが尹貞子(ユ・チョンジャ)さんという方で、年のころ60〜70歳少し前というところか。日本語が流暢で、どこにでもいる気の優しい女将さんという感じの女性だ。一回目にその店を訪れたとき、日本からやって来たということで大変もてなしを受けた。二回目に行ったときはお店はやっていたが、尹貞子さんはあいにく留守で再会することが出来なかった。しかし何とか従業員の方に連絡をとってもらい、電話で話をすることが出来たのだが、電話の向こうで彼女は再会できないことを大変残念がられ、そのお詫びに従業員に命じてか、お土産をたくさん頂いて帰ってきた。三回目に行ったときには店にいらっしゃって、ご主人のことや大統領のこと(近しいらしい)、日本のこと、などなど色々話をして楽しく再会を果たすことが出来た。四回目に行ったときは丁度雨がどしゃ降りのときで、夜遅かったせいもあるが、わざわざ店の外まで見送りに出て、わたしが雨に濡れるのを防ぐようにして傘を差し出し、タクシーをつかまえてくださった。ソウルではタクシーを止めることは至難の業である。不慣れな日本人にはタクシーを止めることは無理だろうと察し、わたしがタクシーに乗るまで付き合ってくださったのである。 親切になったのは尹貞子さんだけではない。明洞(ミョンドン)というソウルのメインストリートでトイレを探していたら、清楚で高貴な雰囲気を湛えた美人、今風でいうならセレブといった感じの女性が近づいてきて、親切にトイレの場所まで案内してくださった。拙いハングル語で「カムサハムニダ、コマッスムニダ」とお礼を言う私に、笑顔で「チョンマネヨ(どういたしまして)」と言って立ち去った貴婦人‥‥。また地下鉄で切符を買おうとして困っていたら、友達にカバンを預け駆け寄ってきた高校生が、言葉が分からない私に身振り手振りで一生懸命教えてくれた‥‥。なんという優しさ。他でも色々こうした親切に出会った。 日頃わたしがブログで韓国人批判を繰り返しているのは、実はこの大いなるギャップからなのである。なぜあんなにも心優しい韓国人が、オフィシャルな場になると「反日主義者」「自民族優位主義者」に豹変してしまうのであろうか。たまたま私が出会った韓国人が親切であっただけなのであろうか‥‥。韓国人を批判するたびに、わたしの心の中は割り切れない気持ちで一杯なのである。 韓国人には表の顔と裏の顔がある。表の顔というのはオフィシャルな顔で、寸分たりとも日本を許さない敵意に満ちた顔である。しかし裏の顔は、いたって優しい、親切な顔。日本の田舎町に見られるような純粋で素朴で、献身的な優しさに満ちた顔なのである。 これはやはり韓国の国情に問題がある。本当は人間としての素直な感情を素直に表現したいのを、韓国という国の成り立ちが、またそれを形成する国情が、断じてそれを許さないのである。裏の顔を素直に表現しようとすれば「親日」すなわち「売国奴」といった社会的烙印が押される社会。そのことに懐疑することすら許されない社会では、完全に思考停止が余儀なくされているのである。それとこれとは別。国是として日本人は卑しむべきものとしてある社会では、我々が普通に考える“対等・平等”な関係は成り立ちえないし許されない。 韓国社会にこうした不文律がある以上、わたしはこれからも韓国人批判をやめるつもりはない。韓国人社会がこうした不文律を乗り越え、心を開き、真に自由な社会になるまでは韓国人を批判し続けるつもりでいる。この単純な問題、しかし彼らにとっては大きなこの障害を、はたして彼らは克服することができるのであろうか‥‥。いつも心の中でそうした葛藤に悩まされながら、実は韓国(朝鮮)人批判を繰り返しているのです。 |
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