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大きな活字でご覧になるにはこちらをクリックしてください。 久間発言その後と、小池防衛相就任に思う久間発言以来、このブログでは本人がどう釈明しようが、どう謝罪しようが、本人のその後のとった行動や発言如何に関わらず、問題だとされる発言の真意を一貫して弁護してきた。参院選が控えているということもあって、政治家は与党も野党もこぞって久間氏を無見識者として悪者に仕立て上げ、政争の具としていた。左翼勢力はわが意を得たりとばかりに、軟弱保守派議員を取り込み「被爆国であるが故に核容認発言を許してはならない」と気勢を上げていた。マスコミも異口同音に「久間発言許すべからず」と声を荒げて論陣を張っていた。これはまさに全体主義である。反論を許さない言論の封殺である。感情的に激昂しているだけで、冷静にその真意を吟味することもなく闇雲に非難しているだけで、これでは韓国で“反日キャンペーン”を張り続ける間抜けな韓国紙と少しも変わらない。 ところがである。今朝の『読売新聞』の社説は、そうしたガリレオ裁判に一石を投じる冷静な“見識”が掲載されていた。わが国も韓国同様言論の自由がないのかと悲観していたが、やはりわが国は違った。どうしてどうして、わが国の言論界もまんざら捨てたものではないではないか。この社説を読んで、大いに救われた。以下に紹介したい。 防衛相辞任 冷静さを欠いた「原爆投下」論議(7月4日付・読売社説)
久間防衛相が、米国の原爆投下をめぐる発言による混乱の責任をとって辞任した。先の講演で、「あれで戦争が終わった、という頭の整理で今しょうがないなと思っている」などと述べていた。「しょうがない」とは、全く軽率な表現である。 参院選を目前にして、野党側は、その表現のみをとらえ、安倍政権批判の格好の材料として罷免を求めた。与党も、選挙への悪影響を懸念して浮足立った。混乱したあげくの辞任劇である。 久間氏は、日本政府のイラク戦争支持は「公式に言ったわけではない」と語るなど失言を重ねていた。このような言動を繰り返しては辞任もやむをえまい。 久間氏は講演で、米国は、「日本も降参するだろうし、ソ連の参戦を止めることができる」として原爆を投下したとの見方を示した。これは、誤りではない。当時、ソ連に対して不信感を募らせていた米国は、ソ連の参戦前に早期に戦争を終わらせたいと考えていた。 同時に、久間氏は、「勝ちいくさとわかっている時に、原爆まで使う必要があったのかという思いが今でもしている」と付言していた。 米政権内部でも、敗色濃い日本への原爆投下については、アイゼンハワー元帥(のちの米大統領)が反対するなど慎重論は強かった。久間氏は、米国が非人道的兵器の原爆を使用したことに疑義も呈していたのである。 そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある。仮想敵ソ連に和平仲介を頼む愚策をとって、対ソ交渉に時間を空費し、原爆投下とソ連参戦を招いてしまったのである。 しかし、野党側は、「米国の主張を代弁するものだ」「『しょうがない』ではすまない」などと感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった。 疑問なのは、民主党の小沢代表が、安倍首相との先の党首討論で、原爆を投下したことについて、米国に謝罪を要求するよう迫ったことだ。 首相は、核武装化を進め、日本の安全を脅かす北朝鮮に「核兵器を使わせないために、米国の核抑止力を必要としている現実もある」として反論した。 当然のことだ。日本の厳しい安全保障環境を無視した小沢代表の不見識な主張は、政権担当能力を疑わせるだけだ。 久間氏の後任には、首相補佐官の小池百合子氏が就任する。国防をはじめ、国の責任を全うするためにも、安倍政権はタガを締め直さねばならない。 (2007年7月4日1時51分 読売新聞) 確かに、大臣の任命権は総理にあり、久間大臣解任のいきさつからも女性大臣というソフトなイメージを後任に据えることによって、参院選を乗り切ろうとしている総理の思惑は見え透いている。男女平等がいわれる今日、その起用については誰も文句が言えない。「男女差別はあってはならないが、男女区別は当然あるべきだ」などと言おうものなら、それこそ久間発言のように、フェミニスト団体からはもちろんのこと、与野党に限らずマスコミをはじめ、あらゆる方面から集中砲火を浴び、政治生命を絶たれることは必至である。したがって、その釈然としない思いを抱きながらも、女性防衛相の誕生を否応なく祝福する雰囲気に皆呑まれてしまっているのではないか。これも一種の言論封殺である。 私は決して女性を差別するものではない。決して女性の能力や資質を見下すものではないが、しかしおのずとそこには区分・領域というものがあるのではないか。男と女には性差がある。外形的性差、生殖性差、脳性差、心理性差。当然、社会的性差というものもあり、棲み分け論的な役割区分というものがある。これを“差別”と捉えるか“区別”と捉えるかで、その考え方が大きく異なってくる。 防衛大臣というのは対外的な意味で、日本の“国防の顔”である。相手の国防省が男であるか女であるかで、そのニュアンスは随分と違うものになってくる。威厳性、圧力性、説得性、信頼性‥‥、何とも言葉では説明できない、「得も言われぬ」雰囲気がそこには加味されるのである。歴史的にも歴代の軍の最高首脳が男であったのは、理屈ではなく必然であった。そのことを知るべきである。 小池百合子氏が政治家としての能力が欠けているとは思わない。確かに、これまで彼女が渡り歩いてきた党遍歴を見れば、少々その政治家としての思想性に疑問がないわけではないが、少なくとも女性政治家の中では資質・能力的に劣っているとは思わない。しかしその資質・能力は国防畑のものではない。つまり、彼女の防衛大臣としての配置は、適材適所ではないということなのである。ほかにもっと彼女の資質や能力を生かすことができる場所があるということなのである。 今回の小池百合子氏の防衛大臣起用は、単に参院選を乗り切るためのパフォーマンスに過ぎない。そんな小手先だけの、応急処置としての人事がまかり通っていいものなのだろうか。それがはたして一国を担う総理がとるべき判断なのか‥‥。大変、情けないことである。ちなみに私は小池百合子氏がタイプである(すいません)。 |
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