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大きな活字でご覧になるにはこちらをクリックしてください。 飛んで火に入る夏の虫(回想記) 昭和49年(1974年)、私は学生運動をしたいだけのために、希望(?)に胸を膨らませて上京した。もちろん学生運動とはいっても左翼のそれではなく、いわゆる右翼のそれであった。三島由紀夫が創設した「盾の会」はすでに解散していたが、その母体となった日本学生同盟(日学同)はまだ健在で、そこに所属して学生運動をすることが夢であった。当時はすでに学生運動は下火になっていて、右翼・左翼とも活気はなかったが、それでも悲願だった日学同に入ることが許され、毎日ビラ貼りやオルグ活動、講演会の企画や討論会、時には左翼学生との乱闘に明け暮れていた。 そんなある日のことである。私が下宿していたアパートでふと気が付いたことがある。それは、私の部屋には思想に関する本や活動に関する品々はたくさんあるが、何か足りないものがある。つまり肝心要の「日の丸」がないことに気付いたのである。新民族派の学生を自負する自分の部屋に日の丸が一流れもないとは情けない。しかし、どこへ行けばその日の丸が売ってあるのか‥‥。皆目見当がつかないので、下宿の友人にそのことを訊ねてみた。「おい、俺は日の丸が欲しいのだが、どこに行けば売ってある?」。もちろん友人もそんなことを知るよしもない。いきなり突拍子もないことを訊かれて、目を白黒させるばかりである。信義に厚いその友人は「今おれ暇だから、一緒に探してやろうか」というので、さっそく街へ出ることにした。 しかし、当てもなく街をさ迷い歩いていても一向に埒があかない。散々探し求めたがそれらしい店が見つからないので、ふと目にとまった派出所で訊いてみることにした。おまわりは体制側の人間だから快く教えてくれるだろうと安易に思ってしまったのだ。それがそもそもの間違えであった。派出所のその若いおまわりは思わぬ問いかけに面食らったらしく、私たち二人を中に招き入れ、少し待つように言ってから奥へ上司を呼びに行った。少ししてその若いおまわりは、上司らしい年配のおまわりを連れて出てきた。 年配のおまわりは「ほほう、君たちは日の丸がどこに売ってあるのか知りたいんだって?今どきの若い人にしては珍しい。大変感心なことだ」と言って我々に椅子を勧めてくれた。そして若いおまわりに命じてお茶を持ってくるように指示してから「今のご時世、左翼の学生たちが跋扈していて非常に嘆かわしい世の中だ。しかし君たちのような頼もしい若者がいるということは、大変心強くて喜ばしいことだ」と言うようなことを話しかけてきた。単純な私はまんまとその話に乗せられてしまって、「そもそも今の日本は‥‥。天皇陛下は日本の文化・伝統の中心であり‥‥。したがって我が国の国体は‥‥」云々と、調子に乗って自論をぶってしまったのである。 そこへ先ほどの若いおまわりがお茶をもってくると、我々にそのお茶を勧めながら、その若いおまわりに向かって「おい君、この頼もしい学生さんたちのお話を君もしっかりと聴きなさい。君を含め今の若い者たちはなっちょらん。そこへいくとこの学生さんの話は立派で為になる。心して聴きなさい」と、まるで私の爪の垢でも煎じて飲めと言わんばかりの調子で、その若いお回りに言うのである。若いおまわりは直立不動で私の話を拝聴(?)している。私はますます調子に乗り、得意になって自論を展開した。当時の私は純粋というか単純(今でもそうだが)で、自分の言っていることは間違いないと信じていたし、まして相手が保守国家権力の手先であるから、別に問題はないと油断していた。ひととおり話を終え、日の丸の売ってある場所(呉服店に売ってあるということ)も分かったので、その場を失礼することにした。二人のおまわりは、私たちに向かって直立不動で敬礼。とても気分のいい一日であった。 ところがしばらく経ってから、よく私の下宿先へおまわりが偶然を装い尋ねて来るようになった。私の書棚を見ては感心し、しきりにメモを取って帰るようになったのである。もちろんあからさまにメモを取るわけではなかったが、なぜか友達のように親しく近づいて来るようになったのである。そのおまわりとは政治を語り、国家国体を論ずるような間柄にまでなってしまった。私は心の中で、このおまわりは思想信条も私と同じような傾向にあるし、きっと私のところに同志として勉強に来ているものとばかり思っていた。そのおまわりが非番のとき、一緒にメシを食いに行くほどの仲になっていたのである。 その年の夏休み、帰郷すると高校の恩師から一本の電話があった。「おいS(私)、元気でやっているか。せっかく夏休みに帰って来ているのだから、たまにはメシでも食いに来いよ」と誘いがあったのである。この恩師は、高校時代大変お世話になった方で、公私共に私を指導してくださった大恩人である。いつになくどうしてわざわざそんな電話をかけてきたのか、一瞬不思議に思ったが、別に断る理由もないのでさっそくお邪魔することにした。最初はメシを食いながらたわいのない話をしていたが、次第に話は核心に移っていった。「ところでお前、東京で何をしている?」「はい、普通にやっていますが‥‥」「そうか‥‥。実はな、お前のことでこの間、刑事が学校へ尋ねて来たんだ。どんな生徒であったのか色々訊いてくるんで、一応文学青年であったとは答えておいたが、その後お前のことで職員会議まで開かれたんだぞ。お前、まさか警察に厄介になるようなことでもやっているんじゃないのか?」と言うのである。 やられた、と思った。恩師には学生運動をやっていることや、刑事が学校へ尋ねてきた経緯を推測を交えて話したが、自分の軽率さに本当に腹が立った。自分の思想信条や行動に間違いはないと確信していたものの、何という間抜けで愚かなことをしてしまったのだろうか。保守である今の国家権力が、まさか自分をブラックリストにあげているとは思いもよらなかった。あの人懐っこい派出所のおまわりといい、親しげに近づいてきたたおまわりといい‥‥、ちくしょう‥‥はめられた。間抜けな自分に憤りを感じた。 1955年の保守合同によって誕生した自民党は、日米安保条約改定と高度成長の過程で成長し、衆参両院において絶対安定多数体制を実現した。この強力な体制にかげりが生じ始めたのが1973年の第一次石油危機であった。その直後の1974年夏の参院選において、自民党は惨敗を喫し、保革伯仲時代が到来することになった。このあと行われた1976年冬の衆院選、1979年秋の衆院選で自民党は敗北し、衆参両院とも保革伯仲状態になっていったのである。 そうなのだ。私はそのとき、今でいうKY、つまり時代の「空気が読めなかった」のである。保守安泰の時代ならば、私のような思想の持ち主はひょっとして歓迎されていたのかも知れないが、いつ保革が逆転し革新政権が誕生するかも知れないときに、国家行政機関に右翼も左翼も関係ない。むしろ、右翼の動向に警戒心を払っている時代であったのである。革新政権が誕生したら、明らかに私のような思想の持ち主は、反体制を標榜する人間として国家権力によってマークされる。先を読むすばしっこさに長けている末端の官憲にとって、私はいいカモであったのだ。飛んで火に入る夏の虫‥‥。今思い返しても、あのときの自分が間抜けで愚かで情けなく、無念で恥ずかしい‥‥。 |

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