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2008年09月22日
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ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(1)「enjoy Korea」を見ていたら、zaq123という方が『ある英国人青年が見た“日本軍人”』という記事を投稿されていた。ややもすると忘れがちな「日本人の心」「日本人の魂」を思い起こすためにも、ぜひご一読くだされば幸いです。後半は「国際派日本人養成講座」主催の伊勢雅臣教授の論文です。 ある英国人青年が見た「日本軍人」
19世紀の末年、明治33年(1900)6月、北清事変(義和団の乱)に揺れる清国の首都北京でのことである。当時西徳二郎公使(昭和20年3月硫黄島で戦死した西竹一中佐:バロン西の父)のもとで駐清公使館付武官をつとめていた柴五郎陸軍砲兵中佐は、血が流れ硝煙漂いはじめた混乱の北京において、日本人はもちろん列強各国の居留民や清国のキリスト教徒たちを暴徒の攻撃から守り抜くため、北京篭城連合軍の一角をになう事になった。 元軍人で、イギリス貴族の出である外交官クラウド・マックスウェル・マクドナルド駐清英国公使がその格・実戦経験から総指揮官に選任され、人員・武器・弾薬はもちろん食糧にも事欠くなか困難な篭城戦が始まった。戦いが始まって数日、柴中佐の水際立った指揮、彼が率いる僅かな日本兵と日本人義勇兵(後の外相石井菊次郎や後の東京帝大教授で中国哲学の泰斗服部宇之吉らが参加していた)の厳正な規律と勇気、瞠目するような敢闘ぶりは、篭城戦をともに戦う列国の兵士、居留民たちすべてを驚かさずにはおかなかった。 そしてその驚きは、時を経ずして厚い信頼へと変わり、柴は篭城軍の実質的な野戦指揮官として、各国の軍人、居留民から仰ぎ見られるようになっていく。柴中佐と日本軍人、義勇兵たちをすぐ側で見ていたイギリス人青年ウィールの手記を引用する。 ‥‥日本人の勇敢さは、このころになると伝説以上のものとなっていた。しかも彼らは深傷(ふかで)を負っても、呻き声ひとつ立てない。あるイギリスの義勇兵は、隣りの銃眼に立っている日本兵の頭部を、銃弾が掠めたのを見た。真っ赤な血が飛び散った。しかし彼は、後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもなかった。「くそっ!」と叫んだ彼は、手拭いを腰から取り出すとやおら鉢巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように、あいかわらず敵の監視を続けていた。ヨーロッパ人の眼には、それは異様な出来事に映った。人間業とは、とうてい思えなかった。 また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりはしなかった。彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。 イギリス公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。日本兵の負傷者たちのところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。ながい篭城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように締めつけ、雰囲気はとかく陰惨になりがちだった。なかには明らかに発狂の症状を示す者もいた。だから彼女たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった‥‥ 八月、ようやく駆けつけてきた日本を含む八カ国合同の救援軍(英・米・露・仏・独・墺・伊)により北京は占領され、秩序は戻るかに見えたが、列国の救援軍はロシア軍を筆頭に略奪者と化した。ただ日本軍のみを例外として。 日本軍に非行がなく、日本軍が占領した区域の治安のよさは、北京市民だけでなく連合軍の間でも評判となり、柴中佐のもとへ教えを請うため視察に来る外国の指揮官もいた。8月14日午後、北京入城後最初の列国指揮官会議がロシア公使館において開催され、日本からは福島安正少将、柴中佐らが参加した。席上、篭城軍の総指揮官をつとめたマクドナルド英国公使が篭城の経過について報告した。そしてその報告の最後に、彼はこう付け加えたのである。 「北京篭城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」 柴中佐と、彼が率いた日本兵、日本人義勇兵達は、幾多の犠牲に苦しみながらも、見事に危機を克服し、大任を果たしたのだ。柴五郎の名は、“リュウトナンコロネル・シバ(柴中佐)”として世界に轟き、大きな賞賛の的となり、世界各国から続々と勲章が授与された。しかし柴にとっては、それらの賞賛・名誉は義勇兵を含む日本兵すべてに与えられたものなのである。柴は、そして戦いに参加した日本兵、日本人義勇兵達すべては、欧米人に伍して戦い日本人の誇りを汚さなかったことが世界に認められ、感涙に咽び、心から喜びあった。 1.唐突な日英同盟締結の背景 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。 1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。 3.籠城計画 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。 ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(2) ← クリックすると(2)につづきます。 shiraty5027 |
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6.清国軍も攻撃開始 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。‥‥数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。‥‥ この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3、4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。 9.コロネル・シバ 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。 ※ 「柴五郎中佐のような働きこそ、国際社会で評価される貢献ですね。」(伊勢雅臣氏談) ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(1) ← クリックすると(1)に戻ります。 shiraty5027 |
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