生贄にされた将軍:本間雅晴中将
戦時中に米国人の捕虜が、日本軍から食事として提供された“ごぼう”を「木の枝を食べさせられた。虐待だった」と戦後訴えたという逸話がある。明らかに「善意」を「悪意」として歪曲したエピソードである。“バターン死の行進”と米軍によって喧伝されたフィリピン、バターン半島の捕虜後送の一件も、実はそんな事件であった。
本間雅晴中将率いる第十四軍が、死者130名、負傷者6800名を出して、米比軍が守備するバターン半島を占領したのは、1942年4月9日のことであった。当初4万人たらずと見込んでいた敵兵力は、何と米兵1万2千人、フィリピン兵6万4千人、計7万6千人もいたうえに、難民2万6千人がいた。バターン戦の後には、米比軍が篭城するコレヒドール島(要塞)攻略戦がひかえている。コレヒドール島攻略には、バターン半島が基地になる。おまけに半島は名だたるマラリア蚊の巣窟であり、米比軍にマラリアやデング熱、赤痢が蔓延しており、その患者は多い。本間中将は直ちに捕虜の後送を命じた。
トラックがないので、捕虜は徒歩行軍した。4月5月はフィリッピンの盛夏である。弱った捕虜、特にマラリア患者の米兵は次々に倒れ、その数は2千3百人と記録された。この日本軍によるバターンの捕虜の後送は、米軍によって“残虐行為”として喧伝された。しかし、もし後送されなければ、すでに弱りきっている捕虜は、あるいは全滅状態になっていたかも知れない。いや、おそらく全滅していたことであろう。その意味で本間中将の処置は正しかった。“死の行進”というより、事実はむしろ“生の行進”だったのである。
中将は終戦後“バターン死の行進”の責任者ということで、マニラの軍事法廷で戦争犯罪人として裁かれた。“死の行進”が誇張であり、中将の人格がそのような非違を許さぬ高潔なものであることが立証されたが、判決は死刑であった。ただ刑が、他の戦犯者の多くが軍人として屈辱的な一般犯罪者なみの“絞首刑”であったのに対し、軍人としての名誉の“銃殺刑”だったのは、さすがに法廷も判決の無理を自覚していたとみられる。
本間中将は1947年4月3日、丁度バターン第二次攻撃日の5周年“記念日”に、処刑された。執行前、本間中将はビールとサンドイッチ、さらにビフテキ、食後のコーヒーまで所望して平らげた。柱に固縛され、銃殺隊長の「用意」の声が響くと、中将は大声に叫んだ。
「 さあ、来いッ ! 」
胸部を貫いた命中弾は6発。中将の身体は、絶命後もなおその流血の胸をはったまま、動かなかった。
■ 辞世の句 (五首あるうちの一首)
甦る 皇御國(すめらみくに)の 祭壇に 生贄として 命捧げむ
合 掌
追 記
本間中将の夫人、富士子夫人が軍事法廷に証人として出廷した際、
「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです‥‥」
と陳述、その毅然とした姿に裁判官も検事も感動の涙を流したといわれる。
( Wikipedia )
参 照
『 指揮官 』 ( 児島襄:文芸春秋 )
shiraty52027
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