安達二十三中将 (一)
最近、あまり代わり映えしない“朝鮮問題”に少々飽きてきている。そこで当ブログでは、数日前から大東亜戦争でご活躍された将軍たちを取り上げている。ソースは『指揮官』(児島襄(こじま のぼる:文芸春秋)と『Wikipedia』である。それを要約し主観を交えて記事にしている。だが、今回安達二十三中将を取り上げるに際して、その要約が極めて困難であることに気がついた。要約できないことはないのだが、無理に要約すると、将軍の人間味溢るる現実の姿から内容が遠のいてしまう危険性があるのである。従って、今回は『指揮官』に記載されている文をそのまま、5回にわたり掲載することにした。
安達二十三(あだち・はたぞう)中将 (一)
オーストラリアの首府キャンベラに、戦争博物館がある。前庭にシドニー港を急襲した特殊潜航艇の残骸が安置され、館内にも、太平洋戦争中の日本軍の遺品が多く展示されている。
出征のとき贈られた寄せ書き入りの日の丸、鉄帽、水筒、あるいは現地生活に使用したのか「○○上等兵」「△△軍曹」とかかれた木の表札‥‥など。それらの“戦利品”の中で、ひときわ目立つのは、黄色い将官綬のついた数本の軍刀である。名札が置いてある。
ジェネラル・マサタネ・カンダ‥‥第十七軍司令官神田正種中将の愛刀である。降伏のとき、オーストラリア軍にさしだしたものであろう。次に「ジェネラル・ハタゾウ・アダチ‥‥」と読んだ案内役のオーストラリア陸軍大佐は、威儀を正すと、その軍刀に敬礼した。
不審げに注目すると、大佐は私にむかってうなずきながら、いった。
「本官は、指揮官として、また人間として、民族をこえ、人種をこえて、このジェネラル・アダチこそ最も偉大なる存在だと尊敬している。彼は、指揮官としての責任の極限を示した、立派な軍人だった」
― と、以上は六年前にオーストラリアを訪ねたさいの出来事であり、そのときは、オーストラリア人大佐の言葉の意味がよく分からなかった。が、その後、安達二十三中将について知ることが多くなるにつれ、大佐の賛辞にはいささかの誇張も含まれていない、と承知できた。
安達二十三中将は、明治23年6月17日生まれ。そこで、「二十三」と名づけられた。陸軍士官学校第二十二期生。近衛歩兵第一連隊勤務を経て陸軍大学校を卒業した後は、参謀本部鉄道課勤めが長かった。
支那事変が起こると、歩兵第二十二連隊長、第二十六師団歩兵団長、第三十七師団長、そして北支方面軍参謀長と、中国大陸を転戦した。
厳格な武人 ― というのが、部下の目にうつる安達中将の第一印象であった。
「師団長、中将ともなれば、敬礼もおうようなものですが、安達閣下の場合は、まるで初年兵のようにキチッとした敬礼でしたね。
なかなかの美食家で、朝・夕食をとどけると、じっと食事を眺めまわされてから、ハシをとられました。それに、朝食前、必ず静かにお茶を立てて一服されました」
そう想い出を語るのは、中将が第三十七師団長時代の当番兵長だが、当番兵の眼から見る中将は、なかなかの気むずかし屋だった。
四十をすぎてからタバコを吸いはじめたとのことだが、中将は師団長当時、一日八十本を吸う愛煙家であった。
「ゴールデン・バット」を好み、ただし吸い口をつけて吸うので、当番兵が一本ずつ「ほまれ」の吸い口をはずして「バット」につけねばならなかった。
週に一回、幕僚と一緒に遠乗りを楽しむが、ある日、落馬して前額部に三針ほど縫う裂傷をうけた。入院中、副官が気をきかせて、日本人マッサージ師をさしむけところ、激しく叱られた。
「民間人をよこして、もし師団長が入院中だと敵に知れたら、どうするのかッ。カネをはらて、すぐ追い帰せ」
当時の安達中将の写真をみると、眉も眼もやや下がり気味の温顔だが、ゆったりとした肥満体で、なかなかに重圧感に満ちている。
厳正な態度といい、細かい配慮といい、少なからず“恐い上官”ではなかったと想像されるが、当番兵、土持兵長をふくめて、安達中将を煙たがる部下は少なく、逆に強い信頼感を抱く者がほとんどであった。
なぜか ― ? 土持兵長は、いう。
(二)につづく
shiraty5027
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