安達二十三中将 (二)
「ひとつは、非常な勉強家だったこと。閣下はいつも二、三百冊の本を居間に並べて置かれました。ヘンペンたる岩波文庫の類ではなく、分厚い歴史書、哲学書が多かった。私ら、やっぱり閣下はちがう、と思うとりました。
もうひとつは、無口でお上手は言われないが、心からの部下想いであることが、私らによく分かっていました。副当番の少年兵が、汽車のコークス暖房の不燃焼で死亡すると、すぐ司令部の暖房を中止され、寒さを我慢しておられたのも、その一例です。決して無理な作戦は承知されず、どうしてもやらなければならないときは、必ず第一線に出られました。この閣下の下でなら、見殺しになることはない、と信頼できました」
いいかえれば、安達中将が心底に秘める指揮官道の“真髄”は、「人間として実行できる命令を出す、部下が直面する苦難は、指揮官もともに味わう」という点にあったわけで、中将が東ニューギニア陸軍を感嘆させているものも、この“安達式統率”にほかならない。
安達中将が北支方面軍参謀長から第十八軍司令官に転補され、ラバウルに着任したのは、昭和十七年十一月であった。その三ヵ月後、昭和十八年二月にガダルカナル島は米軍に奪取され、中部、北部ソロモン諸島と東ニューギニアは、にわかに米・オーストラリア軍の脅威にさらされてきた。
東ニューギニアを守備する第十八軍は、相次いで増兵され、四月には、第二十師団(青木重誠中将)、第四十一師団(阿部平輔中将)、第五十一師団(中野英光中将)、独立混成第二十一旅団(山懸栗花生‐つゆお‐少将)その他約十万人になった。
だが、この十万人は、十万人としての戦力は発揮すべくもなかった。
基幹兵力三個師団のうち、第四十一師団は、東ニューギニア中北岸のウェワク、第二十師団はその東方マダン、第五十一師団はさらに東端のアント岬をまわりこんだラエ、サラモア地区に布陣したからである。ウェワク→マダン間約三百キロ、マダン→ラエ間は約五百キロ。その間は険しい山脈とうっそうたる密林におおわれ、各師団はそれぞれ、ジャングルの大海に浮かぶ“孤島”に似た関係にあった。
安達中将は、ラバウルから海軍機でラエ、サラモア地区の第一線を視察した。ラエに近いホポイに独立混成第二十旅団が配置されていたが、すでにラバウルがあるニューブリテン島と東ニューギニアとの連絡は、米・オーストラリア軍の制空、制海によって困難になって補給が不十分のためか、第二十一旅団の兵は少なからず、ボロボロの軍服に竹の杖という姿であった。病兵が道端に倒れたままになっている。
安達中将は、涙を流して、しばし休養せよ、と命令した。
サラモア地区にまわるころ、安達中将はひどい下痢に悩んでいた。北支から赴任してきたころの二十貫(75kg)をこえる巨軀は、すでにだいぶひきしまっていたが、下痢のおかげで日ごとにやせるのが目立った。軍医は、作戦主任参謀杉山茂中佐に、中将は絶対安静を要する、と注意した。参謀は中将に前線視察中止を進言したが、中将は首をふった。
「いや、ありがとう。しかし、行くよ。下痢はがまんする」
「下痢は生理的にがまんできません。せめて一日だけでもやめてください」
「いや、行くよ。下痢はきっとがまんする」
安達中将は、地下タビをふみしめ、軍刀をにぎって、行く、と主張した。そして、その言葉どおり、真っ青な顔で便意をおさえながら、ジャングル内の夜行軍、スコールの中での露営にも耐えて、第一線視察をつづけた。
「将軍のヨイショ、ヨイショのかけ声は、ドッコイショに変わり、そのドッコイショも出なくなることもあったが、一呼吸一呼吸にがまんを打ち込み、一言のグチもこぼされない。どこまで強い意志か、と胸をうたれた」
杉山参謀は、そう回想しているが、視察行を終えると、安達中将は直ちに軍司令部をラバウルからマダンに移した。
(三)につづく
shiraty5027
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