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突然の不幸に深い悲しみも癒えぬであろう時に、なかなか言えることではないと思う。 医療技術があっても医者が居ないという、致命的な救急医療の問題を改善せよと示してくれたことはひとりの国民として本当にありがたい。そもそも地方からして置去りにされていたという医療問題。 こんな不幸がなければ注目されなかったとしたら、本当になさけないのだが…。 政府も社会も本気で取り組んで欲しい。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081027-00000195-jij-soci
安心して産める社会に=「誰も責める気ない」−死亡妊婦の夫が会見 10月27日21時13分配信 時事通信 東京都内で8つの病院に救急搬送を断られた妊婦(36)が脳内出血で死亡した問題で、夫の会社員男性(36)が27日夜、厚生労働省で記者会見し、「妻が浮き彫りにしてくれた問題を、力を合わせて改善してほしい。安心して赤ちゃんを産める社会になることを願っている」と訴えた。 夫によると、妊婦特有の高血圧もなく健康だった妻の容体が変わったのは4日夕。掛かり付けの産科医院に着くころには頭痛が激しくなり、医師が搬送先を探している間中「痛い痛い」と言い続けていた。「こんなに医療が発展している東京でどうして受け入れてもらえないのか、やりきれない思いだった」。 約1時間後、都立墨東病院での受け入れが決定。救急車では「痛い」とも言わなくなり、「目を開けろ」と言ったら辛うじて開ける状態。「病院に着くころにはもう開けなかった」と振り返り、声を詰まらせた。 搬送要請で、医師は頭痛が尋常でない状況を伝えていたといい、「伝わらないはずがないと思うが、誰も責める気はない」と夫。最初に断った同病院の当直医について「傷ついて辞めるようなことになったら意味がない。絶対辞めないでほしい」と話した。 さらに脳死状態で3日間を過ごした妻が亡くなる日、保育器に入ったままの赤ちゃんを連れてきて妻の腕に抱かせてくれて、親子水入らずの短い時を過ごしたエピソードを披露。「墨東病院の医師も看護師も本当に良くしてくれた。彼らが傷つかないようにしてほしい」とした。 夫は、医師不足や搬送システムなど浮き彫りになった問題について「のど元過ぎれば忘れるのではなく、具体的な目標を持って改善に向かってほしい。何かが変われば『これを変えたのはおまえのお母さんだよ』と子供に言ってあげたい」と話した。 【関連ニュース】 ・ 「ハイリスク分娩の集約も」=地元医師会と意見交換-舛添厚労相 ・ 「医療の専門化も一因」=救急医確保困難で搬送拒否-都内でシンポ ・ 以前から「看板下ろしたい」=減員で総合センター維持厳しく-妊婦死亡の墨東病院 ・ 6施設が常勤3人以下=周産期センター、4月時点-厚労省調査 ・ 周産期センターを全国調査へ=搬送拒否や勤務体制点検-妊婦問題で緊急に・厚労省 最終更新:10月27日21時59分 低レベルなマスゴミがくだらない論点で政治に口出ししている間に本当に重要な問題が置去りにされていると思う。 追記事:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081027-00000602-san-soci
【妊婦死亡】別れの間際、わが子胸に 夫が医師らの配慮に感謝 10月27日23時48分配信 産経新聞 「(医療を)変えたのは母さんだよ」とわが子に伝えたい−。東京都立墨東病院を含む8病院に受け入れを断られた妊婦(36)が死亡した問題。27日に会見した妊婦の夫(36)は、時に言葉を詰まらせ、妻の死を無駄にせぬよう医療の改善を祈り懸命に語り続けた。 最後まで誰かを責めるような言葉はなく、むしろ、口にしたのは感謝の言葉。「医師や看護師は本当に良くしてくれた」。妻は息子を産むと、7日夜に息を引き取った。直前、病室に息子を運んでもらい妻の腕で抱かせてもらえた。親子水入らずの時間はわずか30分。しかし「温かい配慮をいただけた」と振り返る。 妻はベビー用品を用意したり「パパが帰ってきたよ」とおなかに語りかけたり、赤ちゃんを楽しみにしていた。「信頼できる、優しい人だった」。妻との思い出を語る時、少しだけ柔らかな表情になった。 【関連記事】 ・ 【妊婦死亡】ネット検索機能せず73% 妊婦と赤ちゃんの搬送先 ・ たらい回しで妊婦死亡 “最後の砦”に問題点山積 ・ 舛添厚労相vs石原都知事 妊婦死亡めぐり批判の応酬 ・ 舛添厚労相「都から情報ない」と激怒 妊婦受け入れ拒否問題 ・ 舛添厚労相と地元医師会が意見交換 最終更新:10月27日23時48分
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2008年10月28日
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「ナゾの反転」 ― といわれるのが、昭和19年10月25日、フィリッピン・レイテ島沖における第二艦隊の行動である。 当時、レイテ湾にはマッカーサー元帥率下のレイテ島上陸部隊と輸送船団が群集していた。栗田健男中将が指揮する第二艦隊は、この船団を撃滅するため出動したが、レイテ湾43マイル(69.2km)まで迫りながら、突然、身をひるがえして帰っていった。 なぜ帰ったのか? もし突入していれば、敵船団のみならずマッカーサー元帥も、戦艦「大和」の巨弾で吹き飛ばし、あるいは戦局に大変化を与えたかも知れないのに ― と、疑問は当時から、そして特に戦後は米国側から“海戦史上のナゾ”として提起され、栗田中将は内外の批判にさらされ続けた。 ― 「臆病者」「愚将」「無能指揮官」‥‥ そんな酷評さえ加えられている。だが、栗田中将は、ほんとうに無能な指揮官であったろうか ― 。 「大和」「武蔵」の大艦を含む戦艦7、重巡11、軽巡2、駆逐艦19、計39隻の第二艦隊が、ボルネオ・ブルネイ湾を出撃したのは、昭和19年10月22日であった。 第二艦隊は、空母を含まぬいわゆる水上部隊である。そして、すでに空母の主勢力を失っていた日本海軍にとって、この水上部隊が唯一の有力な戦闘単位でもあった。もともと第一艦隊が主力戦艦部隊、第二艦隊は重巡を主力とする夜戦突撃部隊として編成されていたので、旗艦も重巡「愛宕」である。 司令長官栗田中将という人事も、第二艦隊にふさわしいものとみられていた。 司令長官は栄職である。たいてい、海軍大学校を卒業したエリートが就任するが、栗田中将は入試に失敗して海軍大学校の学歴は持っていない。だから、司令長官拝命と聞いて、一番驚いたのは中将自身である。 「冗談じゃない、こんな野武士を、だめじゃないか、そう思ったね」 何せ、明治43年7月に海軍兵学校を卒業して以来、陸上勤務はわずか9年間、後はひたすら砲艦、駆逐艦、巡洋艦と、海上勤務で終始した。元海軍省人事局長・中沢佑中将によれば、提督は「聖将、名将、闘将、謀将、勇将、海将、凡将」に分類される。このうち海将(シー・アドミラル)とは、根っからの“船乗り”提督を意味するが、栗田中将はまさにその典型的な存在であり、当人は不向きと思っても、日本海軍の最後の栄光を発揮すべき水上部隊の指揮官として、最適人の経歴者とみなされた。 第二艦隊の使命は、フィリピンで“決戦”をめざす陸海軍の方針にしたがい、レイテ島に食いついた敵を海上から撃滅することにある。 いわゆる「捷(しょう)一号」作戦であり、海軍はこの作戦にほぼ連合艦隊の総力を投入する決意を固めていた。 すなわち、空母「瑞鶴」を旗艦とする小沢治三郎中将の機動部隊17隻をルソン島北方に進出させて、敵機動部隊をつりあげる。栗田艦隊は2つに分け、西村祥治中将の第二戦隊(戦艦2、重巡1、駆逐艦4)スル海 ― スリガオ海峡を通って南からレイテ湾に向かわせ、その間に、栗田艦隊主力はルソン島とサマール島の間のサンベルナルジノ海峡を抜け、サマール島東岸沿いに南下して、北からレイテ湾に突入する。 また、西村部隊には、志摩清英中将の第五艦隊(重巡2、軽巡1、駆逐艦4)を後続、応援させる。 小沢部隊は空母部隊とはいえ、正規空母は「瑞鶴」1隻にすぎず、あとは給油艦改造の「瑞鳳」、水上機母艦改造の「千歳」「千代田」、それに戦艦の後部を発着甲板にした“航空戦艦”「伊勢」「日向」である。しかも、航空機はわずか116機 ― 身を捨てて敵をひきつけるオトリ部隊であった。 西村、志摩艦隊にしても、その戦艦はいずれも旧式、低速であり、これまた敵艦隊の牽制以上の効果は期待できず、栗田艦隊突入の援護役とみなされた。 さらにまた、フィリピンに展開する基地航空部隊、特に第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将は、体当たり攻撃の特別攻撃隊を編成して、栗田艦隊突入に呼応して敵機動部隊攻撃を用意した。 (二)につづく。 参 考 『 指揮官 』 ( 児島譲著:文芸春秋 1971年 ) shiraty5027
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