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大きな活字でご覧になるには こちら をクリックしてください。 メディアの品格 【コラム・断】 権力批判と差別
先月朝日新聞夕刊コラム「素粒子」が鳩山法相を「死に神」と呼んだ。就任から一年足らずで十三人の死刑執行を命じた法相を諷刺寸評したつもりらしい。しかし、法相は刑事訴訟法の規定を忠実に実行しただけであって、非難されるべきはむしろ同法を無視してきたこれまでの法相だろう。「全国犯罪被害者の会」も、我々に対する侮辱でもあると、抗議している。 私は「素粒子」批判に同意するものだが、もう一歩踏み込んで考えてみたい。ここには、普段我々が意識しない権力というものと差別の関係が潜んでいるからだ。 「素粒子」にも理がないわけでもない。これが権力者批判だという点だ。権力に携わる公人への批判には名誉毀損の例外条項もある。要するに、公人には批判を甘受する義務があり、国民やマスコミには公人を批判する権利がある。問題は「素粒子」が権力批判を至高の使命であると能天気に盲信していることだ。権力批判が差別と同居していることもあるのに。 世の中には、自分が手を汚したくない嫌なことがある。そういうことを、実は権力や公的機関が代行している。例えば、徴税、汚物処理、軍事、死刑。聖書を読めば徴税人が民衆から疎まれていたことがわかるし、中世の警察官検非違使(けびいし)が被差別と権力の融合物だったことも近時明らかになっている。被差別部落の呼称の一つ「長吏」も本来、吏員の長(今で言えば課長、係長か)を意味した。無自覚、安易な権力批判は「俗情との結託」となり、差別さえ生む危険もある。 ( 『 イザ 』 評論家・呉智英 07/11 05:14 ) 呉智英氏には、今から25年ほど前に手紙を頂いたことがある。氏が評論家としてデビューしたてのころで、『封建主義、その理論と情熱』、『読書家の新技術』、『大衆食堂の人々』(いずれも「情報センター出版局」)などなど、奇想天外、斬新卓越した著書を次々出されていた時期である。確か、その本の内容に私がイチャモンをつけて手紙を頂いた。手紙の最後には「上京する折にでも連絡ください、機会があればお会いできると思います」と、本名と住所が記されてあった。その手紙は「郵便書簡(ミニレター)」であったが、その倹約ぶりに知識人としての渋さを感じたものである。 さて、本題であるが「権力批判が差別と同居していることもある」というのは確かにそうだと思う。左翼が隆盛を極めていたころは、多勢に無勢、彼らはよってたかって権力批判をしていた。もちろん権力批判は左右を問わず今でもあるが、その規模といったら今日の比ではなかった。権力が相手なら何を言ってもやってもかまわない。丁度、グリンピースの連中が自らの正義(?)のために運送会社から鯨肉を盗んでも平気な顔をしているように、権力を批判することなら、すべてが許されるというような風潮があった。もちろん、それに疑義を唱えるような隙間はなかったのである。 以前、アマチュアが作った「もも太郎」を風刺したアニメを見たことがある。それは、鬼退治に行ったもも太郎やその家来たちが、鬼たちを成敗していくうちに、次第に形相が鬼のかたちに変貌していくというものであった。最初は義憤から生じた正義の剣であっても、それを振るううちにその相手を殺めるという行為に慣れ、感覚が鈍感になって、しまいには快感すら覚えるようになってくる。まさに朝日や毎日の権力批判は、結局はそれなのではないか。 権力批判を野放図に展開することがもてはやされる時代は、とうの昔に終わっている。むやみやたらな権力批判は、メディアとしての品位・品格を損ねる。いい加減、前時代的陶酔に浸っておらず、節度と良識、メディアとしての本来の使命を持って報道してもらいたい。と言っても、連中には無理であろうが‥‥。 shiraty5027
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