ちょいとイイ話:日波交流史
「波」というのはポーランドの略である。漢字では「波蘭」と表記する。別に「はらん(波乱)」が多い国という意味ではない(すいません)。日本ではドイツによる迫害から約6000人のユダヤ人を救った杉原千畝(すぎはらちうね)氏のエピソードがあまりにも有名だが、ここにもう一つ、ポーランドの孤児たちを救った日本人たちの逸話がある。エンジョイ・コリアというサイトを見ていたら「日本人が知らない、日本と交流のある国その1」(archimedes1000氏による投稿:2007.08.01 19:58:32)という記事があったので、そのまま紹介したい。
日本人が知らない、日本と交流のある国
神戸大震災の時に、日本の子供たちに70年前の恩返しをしてくれた国があった。
シベリアは長い間、祖国の独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーランドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、10数万人のポーランド人がいた。
その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織された。
救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否され、窮余の一策として当時国交の無い日本政府に援助を要請することを決定、救済委員会会長は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請した。そのわずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考えれば、驚くべき即断であった。
それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。
日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとして以下を挙げている。ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと、、、到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。
このような手厚い保護により、到着時には痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを表した。神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。
それから70年ほど経た1995年・・・、
そして1995年1月17日未明、日本では阪神大震災が起こり、死者5000名を超す未曾有の大惨事が起きた。たくさんの子供が親を震災で無くした。
1995年、ポーランドから来日中の「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が、阪神大震災の被災地激励などのため兵庫県庁を訪れた。 同合唱団は、ロシア革命などの動乱の中、シベリアから日本人によって救出されたポーランド人元孤児の感謝のメッセージを携えており、「日本の人々が私たち孤児に良くして下さったように、(被災地の)子どもたちに恩返しをしたいと強く思いました」などと書かれた感謝状を芦田弘逸・副知事に手渡した。
ポーランドは、震災後の1995年と96年夏、「心の癒(いや)しの一端を担えれば」と被災地の孤児ら計60人の子供を招待した。写真は阪神大震災でポーランドへ招待された震災で親を亡くした子供たち。阪神大震災で家族や自宅を失った子どもたち約600人が当時、海を渡った。「壊れた街を一時離れ、心の安定を取り戻してほしい」。米、英、仏、独、豪、ロシア、スイス、チェコなどの12カ国から受け入れの申し出があった。その後も、文通などの交流は続いた。震災10年の節目を迎え、参加者の間で再訪計画が持ち上がっている。在ポーランドの日本大使館へ感謝の言葉を75年ぶりに伝えにやってきた元孤児の老人たち
(765名のうち20名が今もご健在)
そして、ヘンリク・サドスキさ ん(88)は、次のように語った・・・、 「20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。 シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行 き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてく れたことを忘れません。……私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう。」
以上、いまも、これらの話はポーランドの義務教育で使用する教科書に掲載されている。
ポーランドは、東欧最大の親日国として、日本人にも知られている。
我々は恩を忘れない国民である
シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、“ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない”と題した礼状の中で次のように述べている。
「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、我が不運なるポーランドの児童に斯くも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々はその恩を忘れることはない。我々の子供たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、さては指輪までもポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではなかった、しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であり、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童の為に尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。ここにポーランド国民すべては日本に対して、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い恩、最も温かい友情を持っていることをお伝えしたい」
この記事の韓国人のコメントに、「ポーランド人々も、 日本人がナチドイツよりもっと酷い人々というのが分かるようになれば少しは変わる。 遠いということは良いのだ..(苦笑)」というのがあった。ものごとを正しく、前向きに捉えられない、ひねくれた朝鮮人の性癖がよく表れている。それに対し、日本人のコメントに「ウリ達も恨は忘れないニダ」は、うまい! やはり、韓国(朝鮮)人たちは国際人たりえない。がはははは。
参 照
shiraty5027
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