北朝鮮問題

硬軟、落差の激しい不思議なブログ

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韓国:「嫌いな国」日本が急増

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               「嫌いな国」日本が急増

 22日付の韓国紙、中央日報は、最近実施した韓国人の意識調査の結果を掲載し、「最も嫌いな国」が日本と答えた人が昨年の38%から57%に大幅に増えたと報じた。日本の新学習指導要領解説書への竹島(韓国名・独島)明記に対する反発が影響しているとみられる。

 日本に次ぐ「嫌いな国」は、中国(13%)と北朝鮮(10%)。一方で、「最も見習うべき国」の一位も日本(24%)だった。「最も好きな国」は米国(18%)だった。

 調査は済州島を除く19歳以上の男女1200人を対象に実施された。

                  ( 『 産経ニュース・共同 』 2008.9.22 12:39 )
 『2NN2ちゃんねるニュース+ナビ』を見たら、なんとこのニュースに対する2チャネラーさんたちの反応がすごい! ブログの盟友・太郎とももさんに習って、その反応を紹介すると


・韓国発の日本がらみの報道でこんなにすがすがしい思いをするのは初めてだ。
・今年最大のハッピーニュース。
・自分の状況が悪くなると他人を恨む国民性だからな。いまの経済状況ならこうなるだろ。
・無関心でいてくれよ鬱陶しい。
・もっと嫌いになってほしい。
・ちっともかまわん。こっち向くなバ韓国。
・ほんと隣国は敵って言葉通りだな。遠交近攻、昔の人はよく言ったもんだ。
・韓国に好かれたらお終いだ。
・頼むから、質問から日本という選択肢を削除してやってくれ。どっちにせよランクインするのが凄い迷惑。
・嫌ってくれていいよ、こっちは大嫌いだから。
・韓国から友好とか協調姿勢などの言葉を聞くと気味が悪い。反日行動してくれてた方が落ち着くよ。
・まあ、ライバルだと思ってるんだろうな。実際、教育ではもう負けてるだろうし、おまえらもっと本気になれよ。
・視界に入ってこない限り気にしない。
見習うとか馬鹿な事言ってる24%は親日派だ。今すぐ拘束して財産没収すべき。
・反日教育の成果が出てないですね。もっと嫌ってください。
・こっち見んな。
・やったー! もっと嫌って! もっと、もっと嫌って! 在日朝鮮人持って帰って!
・尊敬されるより嫉妬されたい。
・国内で何かあるたびにわざわざこういうソースを作るのは中国・韓国・北朝鮮だけだな。
・予想通り祝賀スレになっとる。
・なんという朗報。100%で構わないからこっちくんな。
・「最もかまってほしい国」 第一位・・・日本なんだろ。
・日本は韓国のアイドルって訳ですね。
・嫌われて結構。好かれたら虫酸が走る。
・「最も嫌いな国」で「最も見習うべき国」ってなんだよ。
そういうのを「妬ましい国」って言うんじゃねーの?
・たった57%なの100%なるまでがんばろう。
・日本嫌いが100%になるよう励んでください。
おい! 最近どうしたんだ? 反日教育が弱いぞ! がんがんやれ!! 
・100%になるまで反日教育しろ。中国や北朝鮮では当たり前。
・喜びすぎだろおまいら。
・まだんなことがニュースになるのか。韓国がどう思おうがどうでもいいべ。
・57%どころか100%になっても構いません。だから関わらないでください。
・さっさと竹島奪還して、付き合いを完全に無くせば良いよ。
・願ったり叶ったりだな。
・非常に低い結果に驚いてます。
・気持ち悪すぎて、正直国家ごと消えてほしい。
・アジア以外の国知らないんじゃね? 知られてないしな。
・歓喜の声が続々と。最近にしてはとても喜ばしいニュース。
・もっと嫌えよバカ朝鮮人!
※ 調査は済州島を除く全国の満19歳以上の男女1200人を対象に、なんで一か所だけ抜くの?
・もっと反日頑張って下さい。断交出来ますように♪
・最も見習うべきでも日本が1位か。
・見習わなくていいから、とにかくもう関わってくんな。
・こういう報道を見るたび思うが、マスコミは、だからどうしろと言いたいんだ。
・嫌いな国北朝鮮って栃木人が福島人嫌いって言ってるようなもんだろ。
・最も見習うべき国パクリと後追い、ということで、敬意は含まれていないね。
・「日本が嫌い」だからなんなの?
・韓国では嫌いな相手から借金をしたり、技術を教えてもらう習慣でもあるのか?
・なんと素晴らしいニュースなんだ。
・生理的に受け付けられない国だから逆にもっと嫌いになってくれ。

 とまあ、こんな反応でした。しかし、2チャネラーのみなさん、ここはそんなに興奮しないでもっと大人らしく冷静に考えてみましょう。確かに彼らは、今風にいえば「うざい」連中です。平気でウソはつくし、ありもしないことをでっち上げ、すぐに自慢話をし始めます。約束は破るためにあると考えているようですし、恩を仇で返すことが当たり前だと思っています。人のものを平気で盗み、万物すべてが自分たちの起源であると本気で考えています。また、ありもしなかった歴史を捏造し、世界中にデマを発信し、それを奨励するようなお国柄です。それに、平気で人を差別し、自分たちほど偉い民族はいないと本気で考えているようです。自分たちの意にそぐわなければ辺り構わずすぐにかんしゃくを起こし、非を指摘されると向きになって反論し、挙句の果ては人のせいにし自分たちを正当化しようとします。病人や体の不自由な人を馬鹿にし、嘲笑するようなそんなお国柄です。でも‥‥

 あれっ? ここまで書いてきたのに、肝心の書き出しのフォローが思い浮かばない‥‥。いくら彼らを弁護しようと思っても、その材料がない‥‥。ん〜〜〜やっぱり弁護は無理でした。がははははは。

※「調査は済州島を除く全国の満19歳以上の男女1200人を対象に、なんで一か所だけ抜くの?」というご質問にお答えしましょう。それは依然根強い地域差別があるからです。




shiraty5027

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ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(1)

 「enjoy Korea」を見ていたら、zaq123という方が『ある英国人青年が見た“日本軍人”』という記事を投稿されていた。ややもすると忘れがちな「日本人の心」「日本人の魂」を思い起こすためにも、ぜひご一読くだされば幸いです。後半は「国際派日本人養成講座」主催の伊勢雅臣教授の論文です。

                ある英国人青年が見た「日本軍人」

 19世紀の末年、明治33年(1900)6月、北清事変(義和団の乱)に揺れる清国の首都北京でのことである。当時西徳二郎公使(昭和20年3月硫黄島で戦死した西竹一中佐:バロン西の父)のもとで駐清公使館付武官をつとめていた柴五郎陸軍砲兵中佐は、血が流れ硝煙漂いはじめた混乱の北京において、日本人はもちろん列強各国の居留民や清国のキリスト教徒たちを暴徒の攻撃から守り抜くため、北京篭城連合軍の一角をになう事になった。

 元軍人で、イギリス貴族の出である外交官クラウド・マックスウェル・マクドナルド駐清英国公使がその格・実戦経験から総指揮官に選任され、人員・武器・弾薬はもちろん食糧にも事欠くなか困難な篭城戦が始まった。戦いが始まって数日、柴中佐の水際立った指揮、彼が率いる僅かな日本兵と日本人義勇兵(後の外相石井菊次郎や後の東京帝大教授で中国哲学の泰斗服部宇之吉らが参加していた)の厳正な規律と勇気、瞠目するような敢闘ぶりは、篭城戦をともに戦う列国の兵士、居留民たちすべてを驚かさずにはおかなかった。

 そしてその驚きは、時を経ずして厚い信頼へと変わり、柴は篭城軍の実質的な野戦指揮官として、各国の軍人、居留民から仰ぎ見られるようになっていく。柴中佐と日本軍人、義勇兵たちをすぐ側で見ていたイギリス人青年ウィールの手記を引用する。

 ‥‥日本人の勇敢さは、このころになると伝説以上のものとなっていた。しかも彼らは深傷(ふかで)を負っても、呻き声ひとつ立てない。あるイギリスの義勇兵は、隣りの銃眼に立っている日本兵の頭部を、銃弾が掠めたのを見た。真っ赤な血が飛び散った。しかし彼は、後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもなかった。「くそっ!」と叫んだ彼は、手拭いを腰から取り出すとやおら鉢巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように、あいかわらず敵の監視を続けていた。ヨーロッパ人の眼には、それは異様な出来事に映った。人間業とは、とうてい思えなかった。

 また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりはしなかった。彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。

 イギリス公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。日本兵の負傷者たちのところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。ながい篭城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように締めつけ、雰囲気はとかく陰惨になりがちだった。なかには明らかに発狂の症状を示す者もいた。だから彼女たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった‥‥

 八月、ようやく駆けつけてきた日本を含む八カ国合同の救援軍(英・米・露・仏・独・墺・伊)により北京は占領され、秩序は戻るかに見えたが、列国の救援軍はロシア軍を筆頭に略奪者と化した。ただ日本軍のみを例外として。

 日本軍に非行がなく、日本軍が占領した区域の治安のよさは、北京市民だけでなく連合軍の間でも評判となり、柴中佐のもとへ教えを請うため視察に来る外国の指揮官もいた。8月14日午後、北京入城後最初の列国指揮官会議がロシア公使館において開催され、日本からは福島安正少将、柴中佐らが参加した。席上、篭城軍の総指揮官をつとめたマクドナルド英国公使が篭城の経過について報告した。そしてその報告の最後に、彼はこう付け加えたのである。

「北京篭城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

 柴中佐と、彼が率いた日本兵、日本人義勇兵達は、幾多の犠牲に苦しみながらも、見事に危機を克服し、大任を果たしたのだ。柴五郎の名は、“リュウトナンコロネル・シバ(柴中佐)”として世界に轟き、大きな賞賛の的となり、世界各国から続々と勲章が授与された。しかし柴にとっては、それらの賞賛・名誉は義勇兵を含む日本兵すべてに与えられたものなのである。柴は、そして戦いに参加した日本兵、日本人義勇兵達すべては、欧米人に伍して戦い日本人の誇りを汚さなかったことが世界に認められ、感涙に咽び、心から喜びあった。

人物探訪:コロネル・シバ

〜1900年北京での多国籍軍司令官。義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦

1.唐突な日英同盟締結の背景

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

2.義和団の地鳴り

 1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京−天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

3.籠城計画

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

4.義和団の来襲

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4、5百人の義和団が襲いかかった。おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍 と共に自衛に立ち上がった。 

ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(2) ← クリックすると(2)につづきます。


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ちょいといい話:日英同盟影の立役者コロネル・シバ物語(2)

(1)からの続きです


6.清国軍も攻撃開始

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。

7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。‥‥数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。‥‥

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。[1,pp481]

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3、4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。‥‥日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

8.安藤大尉の奮戦

 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。‥‥日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。[1,p500]

9.コロネル・シバ

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。

※ 「柴五郎中佐のような働きこそ、国際社会で評価される貢献ですね。」(伊勢雅臣氏談)

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韓国の政治に学ぶ

韓国の政治に学ぶ

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             【外信コラム】 ソウルからヨボセヨ “将軍様”の歯磨き

 9日の建国60周年の記念行事に姿を見せなかったことから、健康悪化説が流れる北朝鮮の金正日総書記の病状を韓国メディアが連日のように報道していた。韓国をはじめ米国や北京の情報筋、消息筋、外交筋のさまざまな情報が飛び交っている。

 韓国の情報機関、国家情報院は翌10日の国会情報委員会で「言葉に障害はなく、動くこともできる」と明らかにし、韓国の大統領府もこの日夜、「脳卒中から回復中」と発表した。

 一方、韓国メディアは「半身不随だが、意識はある」「脳卒中の後遺症で痙攣(けいれん)を起こしている」などと報道。そして極めつけが「歯を磨ける程度」。まるでそばで見てきたような報道まで飛び出した。

 こういった具体的な内容を知り得るのはごく限られた家族や要人のみだろう。情報源がばれて韓国側の諜報(ちょうほう)活動に支障が出るのではないかと心配だ。先日、韓国の政府関係者と懇談した際も、「情報が漏れ過ぎ。こちらの手の内を明かしているようなもの」と話していた。韓国で親北政権が10年間も続いたせいなのか、“対北情報戦”の戦い方をすっかり忘れてしまったようだ。

 ただ、韓国統一省だけはかたくなに口を閉ざしている。韓国の記者たちがどんなに詰め寄っても「さまざまな情報があるが、公式に確認された事実はない」。この報道官、マスコミからは嫌われているに違いない。(水沼啓子)
                                        ( 『 産経ニュース 』 2008.9.22 02:40 )

 金大中、盧武鉉と続いてきた韓国左派政権の下では、統一省や国家情報院(国情院)、外交通商省といった政府機関はこぞって政権が掲げる“太陽政策”を推進してきた。特に統一省はその先鋒であった。ところが今の李明博政権になってからの統一省のこの変貌ぶりはどうしたことか‥‥。7月に起きた北朝鮮による金剛山観光客射殺事件に際しても「北の説明に矛盾がある」といち早く北朝鮮側を非難した。また先日も教科書記述問題で、“太陽政策”といったこれまでの呼称を“和解協力政策”と修正するよう要請したという。この呼称転換は、明らかに同省の北朝鮮に対するトーンダウンである。

 この統一省の寝返りの早さは見事(?)というしかない。つまりことの始まりは、李政権が発足するにあたり“引継ぎ委”が統一省に砲火を浴びせたことに起因する。“引継ぎ委”というのは、前政権(盧武鉉政権)の大統領業務の引き継ぎとともに、新しい政権が向こう5年間に進める国政運営の基礎を作るための作業委員会である。“引継ぎ委”は統一省の解体統合を推進しようとしていた。“太陽政策”にきわめて協力的であった統一省がまず的(マト)にかけられたのは必然であった。その過程で何とか解体統合を免れた統一省が、今度は手のひらを返したようにきわめて現政権に協力的になったことはいうまでもない。政府機関が政府に協力的なのは当たり前なのだが、この極端な方針転換にはいささか呆れる。

 さて、一方国情院はどうか。ちなみに国家情報院というのは、泣く子も黙ると恐れられた“韓国中央情報部(KCIA)”の後身である。KCIAというのは、対北諜報活動、国内スパイの摘発を主な任務とし、拉致やテロ、拷問などを行っていた機関である。大韓航空爆破事件の犯人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)も北でスパイ教育を受けていたときにKCIAの恐ろしさをイヤというほど聞かされていたという。南山(ナムサン:KCIAのあったところ)に連れて行かれたら最後、耳を削がれ目をくり抜かれると教えられていたという。

 2000年に金大中大統領が訪朝した際、その国情院の体たらくぶりには驚かされた。林東源(イム・ドンウォン)国情院長の金正日に対するヘイコラぶりである。金大中と金正日の晩餐会のとき、着席していた金正日が、その後ろに直立不動の姿勢で立っている林東源をアゴで呼びつけ、何やら耳打ちをしていた。それに対して林はあたかも自国の大統領に接するかのように恐縮した面持ちで、金正日の耳打ちにヘイコラしていた。林長官は、本来、金正日を逮捕しなければならない立場の人間である。その人間が、金正日にペコペコしているのである。丁度、わが国の警視庁長官がオウム真理教の麻原彰晃に呼びつけられて、ヘイコラしているような図である。

 その骨抜きにされた国情院は、それをいまだに引きずっている。つまり、金正日にまつわる情報を、メディアに向かってペラペラと公表しているのである。国情院は「北の情報をこんなに持っています。仕事はしっかりやっていますよ」という意味で、それが現政権に対する忠誠だと思ってやっているのかも知れないが、内情(情報収集力)を北に知らせるという意味で、やはり今も北に加勢しているのである。統一省は口をつぐみ、国情院は惜しげもなく情報を公開する。この極端な姿勢の違いは、やはり韓国らしいといえば韓国らしい。

 ところで、統一院が口をつぐんでいる理由は実は他にも考えられるのである。統一院は1999年に“北朝鮮離脱住民定着支援事務所(ハナ院)”を設立している。ハナ院というのは脱北者の支援施設で、脱北者たちはここでの教育を経て韓国社会に入っていく。当然、ここで目ぼしいと思われる人間は、韓国のスパイ教育を受け、再び北にスパイとして送り込まれていると考えるのが自然である。つまり、国情院があまり金正日の容態などをペラペラと喋られると、そのことによって北に侵入しているスパイの足がつく危険性があるのである。統一院がひそかに送り込んだスパイが北で発覚することを恐れて、統一院は口をつぐんでいるのではないだろうか。

 ともかく、政権が代わるたびに政府機関が混乱し、足並みが揃わないのはこの国の政治の仕組みと民族性そのものに原因がある。政権が代わるたびに為政者の顔色を伺い政策転換を余儀なくされるのは、誰がどう考えても混乱を生じないわけがない。特に外交や国防といった国の根幹をなす方針が、ことあるたびに大きく変わっていたのでは国民の不信もさることながら、国際的に信用が置けない。わが国は韓国のこの醜態をぜひ反面教師として学んでおきたい。


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