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南北朝鮮を分断する軍事境界線。その両者の窓口である「板門店」という地名が世界のマスコミをにぎわすようになったのは、1951年10月25日、休戦会議の会場がここに移ってからである。同年7月10日に始まった休戦会議は当初、板門店の北10キロにある高麗時代の古都開城(ケソン)で行われていた。しかし、会議場にあてられた来鳳荘(昔の料亭)や休憩所がほとんど北側に掌握されており、国連軍側にとっては不自由が多かった。このため国連軍側は会議場所を他に移すことを希望し、協議の末、当時南北両軍の接触線上にあり、かつ交通の便のよい板門店が新たな会議場に選ばれたのである。 さて、「板門店」という名の由来であるが『wikipedia』によると 「板門店」の名は、停戦条約調印の場所(現在の板門店南北共同警備区域より北朝鮮側に入った所にある)近くにあった「ノル門里」という名の店(タバコ屋、蕎麦屋、中国料理店、雑貨店などの説がある)を、「ノル」が「板」だという意味と知った中国人民志願軍兵士が「板門店」と書き表したことから定着したという。とある。また、『 板門店 < 統一への対話と対決 > 』(菊池正人・中公新書)によると それまでの板門店はといえば、わらぶきの農家が数戸点在していただけの文字通りの寒村。高麗時代には「ノルムンリ(板戸の里)と呼ばれ、憂さ晴らしに野遊びに来る浪人相手にドブロクを売るちっぽけな居酒屋が一軒ポツンとあるだけだった。その居酒屋もいつの間にか消え、朝鮮戦争のころには旅人相手の小さなそば屋に変わり、その屋号が「板門店」だったといわれる。といっても確かな伝承があるわけでもなく、居酒屋やそば屋ではなくて雑貨屋だったとの説もある。多分、日常品なども並べた峠の茶屋のようなものだったのだろう。いずれにせよ、それまで地図上に名もなかったようなわびしい土地が、休戦会談の場所に決まったことで、一躍、歴史の前面に浮上することになってしまったのである。とある。 人に例えれば、無名の一般人が突然脚光を浴び、そのまま人間国宝になってしまったようなものである。板門店は以来58年間、軍事的緊張を保ち続けている。その間、「ポプラ事件」(1976年)、「ソ連大学生越境事件」(1984年)、相次ぐ亡命事件等がこの地で起きている。東西冷戦終結後、形骸化した東西関係の中にあって、いまだにその軍事的緊張を保ち続けている板門店‥‥。オラはこれまで3回この地を訪れたが、とにかく緊張したし、とても感慨深いものであった。この体験は、我が半生の中で最高の思い出といってもいい。機会があれば、ぜひもう一度行ってみたい。 shiraty5027
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2010年03月16日
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