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この間テレビで、新右翼団体『一水会』の顧問、鈴木邦男氏(福島県出身)が「三島由紀夫全集全35巻・補巻1(新潮社)を全巻読み返してみた。おそらく、解説や訂正の一字一句までつぶさに読破したのは僕だけだろう。きっとこの本を編集した人でさえ、そこまでは読んでいないはずだ」と自慢していた。 中学3年生のとき、「大学の卒論は三島由紀夫をやるぞ!」と心に決め、実際にそれを実行したオラでさえ、当時卒論の資料にとこつこつと買い揃えた『三島由紀夫全集』を未だ読破したことはない。それで、鈴木邦男氏の向こうを張って全巻読破にチャレンジしようと思ったが、今少し読み返してみても三島文学はきわめて難解で、オラの頭ではとうてい手に負えない。それであっさりやめることにした。しかし癪である。仕方がないので、比較的読みやすい『行動学入門』(文芸春秋)という本を少しだけ読んだ。その中に「個性の終わり」という『女性自身』に連載されていた一文があったので紹介したい。 よく美容相談欄などに、 「あなたの個性美を活(い)かしましょう」 などと書いてある。個性というのは、まことに便利な言葉で、こんな文章の真意は、 「あなたのペチャンコな鼻の魅力を活かしましょう」 とか、 「あなたの短い太い足を活用しましょう」 とか、の意味にすぎません。 「A子さんて、どんな方?」 「とても個性的魅力にあふれた方よ」 という意味は、おのずから、 「けっして美人ではないけれど‥‥」 という意味を隠しています。 画家に向かって、 「君の絵にはたしかに個性がある」 というのは、苦しいほめ言葉で、 「大して才能はないけれど‥‥」 という意味を隠している場合が多い。 個性尊重は、十九世紀ロマン派の勃興(ぼっこう)と共に、それまでの古典派の衰退と共に、はじまりました。それまでは個性なんて言葉は、一向ほめ言葉にはならなかったのです。それ以来、「美の民主化」時代がはじまり、ペチャンコな鼻や短い太い足も、それぞれの美を主張する勇気を得たのであります。 ギリシャ彫刻のアポロやビーナスだけが美男美女の代表であった間は、美は全く特権的、貴族的なもので、世の九十九パーセントの人間は、美のおこぼれにもあずかれませんでした。今やアポロやビーナスの顔は、つまらない顔の代表になり、それというのも、アポロやビーナスは、大きすぎる鼻や、小さすぎる眼を持っていず、すべてに程がよくて退屈だということになったのです。 この風潮は顔ばかりでなく、風俗、社会、芸術、あらゆる方面へ波及しました。ピカソの女の顔は、平目じゃあるまいし、横顔に目が二つ描いてある。ガウディの建築は、飴(あめ)細工みたいに、グニャグニャにねじれている。ニーマイヤーの建てたブラジルの文部省は、どう見てもキャバレーにしか見えません。 個性とは何か? 弱みを知り、これを強味に転じる居直りです。鼻が大きすぎたら、世間をして「鼻が大きいほど魅力的だ」と言わせるまで、戦いに戦い抜くことです。整形美容の病院へ飛び込んだりするのは、個性のない人間のやることとして、恥ずかしいうしろめたいことと思われている。床屋へ飛び込んで、アラン・ドロンの写真を見せて、 「オイ、この通り刈ってくれ」 なんて言うのも、個性のない人間です。 しかし、人間だから、いつかは戦いに疲れる。絶対に勝ち味のある戦いならいいが、いつまでたっても勝つ見込みがないとなると、自分の個性に疑問を抱くようになる。個性とは、自分と世間との間の永遠の戦いであるから、たとえばマレーネ・デートリッヒみたいに、おかめがアクビをしたような顔が一世を風靡(ふうび)してしまえばそれで問題はないが、そこまでいく自信は誰にも持てるわけではない。 そのとき人々は、個性というものを捨てたくなる。大きすぎる鼻に一生忠実を近い、その鼻の美を認めさせるために、戦いつづけているということは、逆に言えば、自分の劣等感に一生縛られているのと同じことになる。個性と劣等感が結びついているものなら、その両方を忘れてしまえば、どんなに楽だろう。おかしなことに、人間の心には、 「みんなとちがっていたい」 という気持ちと、 「みんなと同じになりたい」 という気持ちがいつも争っているのです。 そこで、世間で大流行になるものには、必ず個性尊重の裏側に、個性没却の楽しみが織り込まれている。男の子の間でアイビー・ルックが大はやり、昔ながらの真っ黒な金釦(ぼたん)の制服と比べれば一見個性的なようだが、みなが着だすと、皆と同じになりたいという欲求で着るようになり、それは一種の制服と化してしまいます。 本当は、美というものは、アポロやビーナスみたいなものではなく、平凡で普遍的なものなのかもしれません。たとえば、若さは美しい。肌が美しい。目が美しい。髪が美しい。これは誰にも均等に与えられている美ですが、若さを失いかけると、衰えた美にしがみついて若さの仮装に憂(う)き身をやつすか、あるいは、美はあきらめて個性に生きるか、どちらかしかなくなります。 はじめから、個性尊重主義でやってきた非美男非美女は、その点、年をとっても生きやすいが、絶対の美男美女は、年をとって来たら、目もあてられないことになる。個性という救命袋を持たずに、海へほうり出されたようなものだからです。若いころ人気をはせた映画女優や二枚目の老境ほど、見た目にわびしいものはありません。 人生とは、救命ボートや救命袋なしで船出したほうがよいか、それともはじめから救命具にたよって出帆したほうがよいか、そのへんが人生のむずかしいところです。 そこで、人生案内回答係は、教養をおつけなさい、そこで内面的な美を蓄(たくわ)えなさい、と忠告します。しかし、美とはそもそも外面的なものだし、浪費されるものだし、貯蓄できるはずのものではありません。私は今まで、世界思想大系なんかを読破したおかげで美人になった、などという人に会ったことがない。 私の人生訓はこうです。 女は個性に飽きたら、整形美容病院へ飛び込むがよし、男は個性に飽きたら、お巡(まわ)りさんになって、制服を着るがいいでしょう。しかし、くれぐれも、将来のために「個性の救命具」を用意するようなみみっちい真似(まね)は、若いうちからしないでほしい。私は「私の鼻は大きくて魅力的でしょ」などと威張っている女の子より、美の規格を外(はず)れた鼻に絶望して、人生を呪(のろ)っている女の子のほうを愛します。それが「生きている」ということだからです。だって、死ねばガイコツに鼻の大小高低など問題ではなく、ガイコツはみんな同じで、それこそ個性のおわりですからね。 shiraty5027
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