右翼と左翼は紙一重:児玉誉士夫という人
右翼の大物、政界の黒幕、フィクサーと呼ばれた男、児玉誉士夫氏の経歴は面白い。『大東亜戦争肯定論』(林房雄)という本を今読み返しているが、その中に「児玉誉士夫の自伝」という章があって、氏の自伝『悪政・銃声・乱世 ― 風雲四十年の記録』(弘文堂)からの引用があった。「(この本は)ただ読物として読んでも面白いが、大正、昭和期の右翼の発生と成長を解明する文献として大変貴重である」と解説されているが、なるほど、面白そうな本である。さて、今回はその部分を少しだけ紹介したい。
児玉氏は大正15年、15歳のとき、ソウルの姉の家を飛び出し、東京の長兄を訪ねて鉄工所の見習工として働くのである。当時不景気は深刻となり、米騒動が起こり、つづいて神戸では三菱、川崎二大造船所のストライキが起こり、左翼の活動は活発となり、労働組合と農民組合が続々と結成されていた。一方、そんな不隠の世情をよそに、財閥や資本家は労働者階級に背を向けたまま、不当でしかも苛酷な搾取を行いつつあった。
当時すでに、われわれの職場でも、小単位の労働組合ができていた。最下級の見習工の私もまた一組合員として加入していたのである。自分たちの立場が惨めであればあるほど、そして労使の均衡があまりにも不釣合いであることを知り尽くしている私だけに、労働組合の結成は賛成こそすれ、もちろん反対するものではなかった。
意外な話である。だが、「何か」が児玉少年を引きとめ、左翼運動に対して批判的にさせたのである。
その一つは、争議の場合など、なぜ赤旗を掲げ、“われらの祖国ソビエト”という奇怪なスローガンを使わなければらならないのか ― これが私にはどうしても不思議でならない。われわれ日本の祖国は、もちろんソビエトでもなければ、また他の外国でもないはずだ
少年工の煩悶が始まるのである。彼は毎日のように工場の裏窓から隅田川の流れを見つめては、真剣に考えた。「左翼に走るべきか、右翼に進むべきか‥‥」。彼は“起て万国の労働者‥‥”という歌声には胸の血の高鳴りを覚えるが、“高く立て、赤旗を、そのもとに生死せん‥‥”の革命歌にはどうしても共鳴できず、むしろ強い反撥を感じていたのである。
当時の右翼は、その闘争を共産主義と社会主義だけに向けられているように思われ、また、国内問題よりも大陸方面に目が向けられているようで、児玉少年には右翼に走ることを躊躇させていた。ところがそんな中、新たに「建国会」という右翼の結社が出現するのである。その幹部には帝大教授の上杉慎吉、元東京市長の永田秀次郎、国家社会主義者の津久井竜雄、赤尾敏などがいて、児玉青年(18歳)の目には「非常に進歩的な考えを持った人々」の集まりのようにみえたのである。
当時のほとんどの右翼団体が、左翼に対する攻撃のみに終始していたにもかかわらず、金権政治あるいは資本主義の横暴に反撥し対抗したということは、公平にみて革新的であったと思う‥‥したがって、赤旗に寄らずして、金権政治や悪辣な資本を攻撃しうる思想的結社があるとすれば、それに強い関心をもってひきつけられざるを得なかった
これが児玉氏の「右翼入門」である。もし左翼が赤旗なるものを振りかざしていなかったら、児玉氏のその後はどうなっていたか分からない。先のブログで「右翼も左翼も紙一重」と書いたが、まさにそんな気がする。
shiraty5027
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