エノラ・ゲイ機長の遺族に思う
エノラ・ゲイ機長遺族は不快感=大使出席、「無言の謝罪」−米
広島に原爆を投下した米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子は5日、CNNテレビに対し、オバマ政権が平和記念式典にルース駐日大使を派遣したことについて、「そうすべきではなかったと思う」と不快感を示した。
アラバマ州在住のジーン・ティベッツ氏は、電話インタビューで、「これまで一度も行われてこなかったのに、なぜ今になって(代表団を)送るのか分からない」と批判。米政府は原爆投下に謝罪していないが、「無言の謝罪かもしれない」と述べた。
また、原爆投下が戦争終結を早め、多数の人々の命を救ったとして、「当然、正しいことをした」と話した。
( 『 時事通信 』 2010/08/06-10:02 )
反論を承知で書くが、このエノラ・ゲイのパイロットの息子が言う事には一理あると思うし、筋が通っているように思う。確かに一日本人として、いや、人間として広島・長崎に投下された原爆に対する憎しみや怒りは当然あるし、その被爆者やご家族に対する無念と同情は、同胞として等しく禁じえない。
だが、もし原爆が投下されなかったらわが国はどうなっていただろうか。ソ連のわが国に対する侵略は不可避であっただろうし、一億玉砕という悪夢が現実になっていたかも知れない。要するに、感情論と戦争という国際政治が同じ文脈の中で一緒くたに語られるからややこしくなるのではないか。
左翼は、「原爆は非人道的な残酷な兵器である。米帝によるその投下によりわが国は凄惨な地獄図と化した。したがって核兵器をこの世から根絶するために、非核三原則を遵守し、核に反対し、日米軍事同盟を解消しよう」という妙な論法になる。
たとえば「核兵器は非人道的な兵器」と言うが、では「人道的な兵器」などといったものがこの世にあるのか? 「被爆国だから核を持たない」というが、むしろ被爆国であるからこそ核を持つ必要があるのではないか? 我々は幾度となく聞かされたこの非論理的な妙なお題目の暗示にかかり、合理的に考えることが鈍化しているような気がしてならない。また、被爆国であることが原爆に対する論議を封じ、いつしか腫れ物を触るようにタブー化されてしまっているところがある。米国の原爆の投下を肯定的に捉えようものなら、いつかの罷免された大臣のように、右左関係なく袋叩きにされるという妙な言論封殺状態にある。
確かに戦争のない、核兵器のない世の中にこしたことはない。だが、現実には政治の延長としての戦争は有史以来どこかしこかに常にあり、核兵器が厳然と存在し、我々はその恐怖の中で生活を余儀なくさせられている。核は実際には使われず、その目的は抑止力にあるとはいわれるものの、現実にはその核の力が国際政治力学の大きな要素となって働いているのである。「核反対!」とお題目を唱えていれば核がなくなるのならそれでもいいが、国際社会の現実はそうはいかない。
話を戻すが、米国が原爆投下についてわが国に謝罪をすれば、我われはある程度感情的に癒され溜飲が下がるかも知れないが、同時にそれは彼ら自身が彼らの過去や歴史を否定することになり、我われが朝鮮人たちに法外な賠償と謝罪を要求され、それに屈服するような屈辱と同じようなことになるのではないか。日本は土下座外交を本分としているので謝罪は平気なのだろうが、国民に対し責任をもち信念のある国家は、軽々に自分たちの歴史を否定し、先人たちを貶め、国益を毀損するような愚かな謝罪は決してしないものである。
被爆という「感情論」を、国際政治という「現実論」と同じ文脈で論じてはならない。「戦争を早く終結させ勝利するために原爆を投下した。したがって謝罪する必要はない」というパイロットの息子の論理は、我々日本人にとって感情的には不愉快極まりないが、論理的には筋が通っている。感情論を巧みに政治論に結び付けようとする論法は「人殺しはいけない。したがって死刑は廃止すべきだ」という短絡的な発想によく似ている。
shiraty5027
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