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「今から考えても身の毛がよだつほどの“死の行進”であった」と、中野中将は回想するが、すでに弱りきっている第五十一師団将兵にとって行軍は負担が多すぎた。サラワケット山の急斜面にかかるまでに、約二百人が倒れた。 食料は乏しく、しかも連日豪雨に襲われた。疲れ果てた将兵の中には、踏みしめる足の力も衰え、あるいは生きる気力を失って小銃、手榴弾で自決する者、岩角から声もなく断崖を落下するものも少なくなかった。おまけに、寒い。熱帯地方とはいえ、高山の夜は零下二十度にも冷え込み、夏服一枚でマラリアを病む兵は、五人、十人とひとかたまりに凍死した。 サラワケット越えで、どれほどの将兵が倒れたかは不明である。約千人とも、約二千人ともいう。 すでに乏しきわが糧に 木の芽草の根補いつ 友にすすむる一夜は 「サラワケット」の月寒し この第五十一師団の軍歌「サラワケット越え」の一節に、当時の悲境がうかがえる。 安達中将は、第五十一師団の先頭がサラワケット山を越えてキアリ部落に達した、と聞くと、直ちにキアリに司令部を進め、毎日、よろよろと密林からあらわれる将兵を、泣きながら出迎えた。 ガダルカナル島の戦いは、飢えと病魔の二重苦の戦いだといわれる。ニューギニアの第十八軍はさらに長行軍を加えて三重苦と戦ったのである。が、その三重苦の戦いは、サラワケット越えで終わらず、第十八軍は米・オーストラリア軍に追われて転進を重ねながら、昭和十九年四月下旬には、ウェワク付近で孤立した。西方のアイタベ、ホーランジアに米軍が上陸して退路を遮断されたからである。 安達中将は、アイタベ攻略を決意した。そのままでは、海軍部隊を含めて約五万四千人に減少していた第十八軍も、十月末には全軍飢え死にと判定されたからである。しかし「猛号」作戦と名づけられ、七月十日から開始された攻撃も、八月四日には中止せざるをえなかった。損害約一万人を数えた。 安達中将は、自活による持久を指令した。「それから約四ヶ月間の安達中将は、食糧技術者であり、医者であり、宗教家であり、行政家であった」と、参謀の一人田中兼五郎少佐が回想しているが、中将はそれまでの教養のすべてを絞り出して、各部隊の生活指導に当たった。 安達中将の体重は十三貫(48.75kg)に減り、持病になっていた脱腸は悪化し、歯はほとんど抜け落ちていた。しかし、中将は、自身のことはいささかも顧みることなく、密林をこえ、川を渡って、どんな遠い小部隊も訪ねて、激励した。 サゴ椰子の実からとる澱粉が、主食であった。その採取法、また病人運搬法と永住農園の開拓計画など、生活の基本設計はすべて安達中将の考案であった。原住民に対しても、自ら杖をついて酋長に面会して、協力を求めた。 田中少佐は「あの困苦の戦場で、第十八軍にただ一人の抗命者も出なかったのは、安達中将の“無私無雑”の指揮のおかげであった」と強調するが、安達中将の真面目な姿勢は、原住民にも感動を与えた。 原住民たちはすすんで自分たちの食糧を日本軍に提供し、そのための餓死者も発生するほどであった。 (五)[最終回]につづく。 shiraty5027
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名将
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