北朝鮮問題

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安達二十三中将 (四)

イメージ 1 九月二十二日、第五十一師団はサラワケット山に分け入った。白いあごひげにおおわれ、乃木将軍に酷似した中野中将は、一本の杖にすがって身を運んだ。

「今から考えても身の毛がよだつほどの“死の行進”であった」と、中野中将は回想するが、すでに弱りきっている第五十一師団将兵にとって行軍は負担が多すぎた。サラワケット山の急斜面にかかるまでに、約二百人が倒れた。

 食料は乏しく、しかも連日豪雨に襲われた。疲れ果てた将兵の中には、踏みしめる足の力も衰え、あるいは生きる気力を失って小銃、手榴弾で自決する者、岩角から声もなく断崖を落下するものも少なくなかった。おまけに、寒い。熱帯地方とはいえ、高山の夜は零下二十度にも冷え込み、夏服一枚でマラリアを病む兵は、五人、十人とひとかたまりに凍死した。

 サラワケット越えで、どれほどの将兵が倒れたかは不明である。約千人とも、約二千人ともいう。

   すでに乏しきわが糧に
      木の芽草の根補いつ
   友にすすむる一夜は
      「サラワケット」の月寒し

 この第五十一師団の軍歌「サラワケット越え」の一節に、当時の悲境がうかがえる。

 安達中将は、第五十一師団の先頭がサラワケット山を越えてキアリ部落に達した、と聞くと、直ちにキアリに司令部を進め、毎日、よろよろと密林からあらわれる将兵を、泣きながら出迎えた。

 ガダルカナル島の戦いは、飢えと病魔の二重苦の戦いだといわれる。ニューギニアの第十八軍はさらに長行軍を加えて三重苦と戦ったのである。が、その三重苦の戦いは、サラワケット越えで終わらず、第十八軍は米・オーストラリア軍に追われて転進を重ねながら、昭和十九年四月下旬には、ウェワク付近で孤立した。西方のアイタベ、ホーランジアに米軍が上陸して退路を遮断されたからである。

 安達中将は、アイタベ攻略を決意した。そのままでは、海軍部隊を含めて約五万四千人に減少していた第十八軍も、十月末には全軍飢え死にと判定されたからである。しかし「猛号」作戦と名づけられ、七月十日から開始された攻撃も、八月四日には中止せざるをえなかった。損害約一万人を数えた。

 安達中将は、自活による持久を指令した。「それから約四ヶ月間の安達中将は、食糧技術者であり、医者であり、宗教家であり、行政家であった」と、参謀の一人田中兼五郎少佐が回想しているが、中将はそれまでの教養のすべてを絞り出して、各部隊の生活指導に当たった。

 安達中将の体重は十三貫(48.75kg)に減り、持病になっていた脱腸は悪化し、歯はほとんど抜け落ちていた。しかし、中将は、自身のことはいささかも顧みることなく、密林をこえ、川を渡って、どんな遠い小部隊も訪ねて、激励した。

 サゴ椰子の実からとる澱粉が、主食であった。その採取法、また病人運搬法と永住農園の開拓計画など、生活の基本設計はすべて安達中将の考案であった。原住民に対しても、自ら杖をついて酋長に面会して、協力を求めた。

 田中少佐は「あの困苦の戦場で、第十八軍にただ一人の抗命者も出なかったのは、安達中将の“無私無雑”の指揮のおかげであった」と強調するが、安達中将の真面目な姿勢は、原住民にも感動を与えた。

 原住民たちはすすんで自分たちの食糧を日本軍に提供し、そのための餓死者も発生するほどであった。

(五)[最終回]につづく。


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安達二十三中将 (三)

 オーストラリア軍は、東ニューギニア東南ポートモレスビー方面から北東進して、サエ・サラモア地区に圧迫を加えていたが、昭和十八年六月三十日、サラモア南方のナッソウ湾に米軍第百六十二連隊が上陸した。

 第五十一師団は、危険に直面した。師団に増援しようにも、制空権、制海権は敵の手中にある。かろうじて北岸に到着できても、サラモアに行くには標高三千メートル級の高峰が折り重なるフィニステル山脈を横断せねばならない。

 すでに兵力減少していた第五十一師団は、七月二十日には総計三千二百五十人、うち戦闘要員二千五百八十人となった。しかも、弾薬、食料ともに乏しく、糧食の貯蔵量は一日百人平均の運送で二日分が維持されているにすぎず、砲弾は山砲の六百発が最も多く、十センチ加農砲に至っては、わずか五発という有様であった。

 安達中将は八月二日、ラエに飛んで戦闘を指揮した。特に第五十一師団長中野中将にたいして、私信をおくって持久を要求した。

「師団は長期にわたり、大敵によく抗戦、サラモアを固守せり。感謝するところなり。然れども、該地の重要性にかんがみ、かのスターリングラードにおけるソ連軍のごとく、最後まで固持すべきを希望す」

 安達中将は、第五十一師団がどのような苦境にあるかはよく知っている。だから、あえて命令ではなく、私信で激励した。命令なら、うっかり後退すればたちまち命令違反となり、処罰の対象になるが、私信であれば融通がきく。また、「スターリングラードのソ連軍のごとく」という表現には、ソ連軍が持久に徹して頑張ったように、決して玉砕突撃を急ぐな、という意味が含まれている。

 安達中将独特の細慮に満ちた指揮法であり、第五十一師団は感激した。

「師団ノ任務ハ『サラモア』ヲ確保スルニ在リ‥‥之ヲ保持シ得サルトキハ‥‥軍旗ハ焼キ奉リ病兵ニ至ル迄立チ上リ切リ死ノ覚悟ナリ、生キテ捕虜トナルモノ一兵モアルヘカラス‥‥」

 と、師団長中野中将は、むしろ、安達中将の温かい心根に感奮して決死の覚悟を部下に求め、第五十一師団の残兵たちも生米をかじり、粉味噌をなめながら、銃をにぎりつづけた。

 だが、九月四日、新たにG・ウッテン少将のオーストラリア第九師団がラエ東方約二十キロのブソ河口に上陸し、五日にはG・ベイジー少将指揮のオーストラリア第七師団が、ラエ西北西約三十キロのナザブ平原に降下した。

 もはや、第五十一師団の命運は尽きた、とみなすべきである。中野中将は佐賀生まれである。幕僚の起案書には、いつも「よかろうたい」と泰然とうなずくだけであったが、この時期には、作戦参謀の後退持久戦案に首をふった。

「もう俺もがまんできぬ。この辺で残兵力を終結して斬り込もうじゃないか」

 飢えと病によろめく部下に、抵抗力は乏しい。坐して砲爆弾に吹き飛ばされ、切り裂かれる最期は目に見えている。ならば軍人らしい死を与えるべきであろう。はじめてきっぱりと幕僚の献言を拒否する中野中将に、参謀たちも粛然と頭を垂れたが、そのとき、安達中将の第十八軍命令が受信された。撤退せよ、という。

 中野中将も幕僚たちも「心の動揺を覚えた」。玉砕の決意を固めて、むしろ、解放感を感じていたからである。だが、一兵でも多く生存せよ、という安達中将の温情もよく分かる。安達中将は、後退を援護するために、第二十師団の一部をマダンから派遣する、とも伝えてきている。

 中野中将は、約四千メートルの高峰サラワケットを越えて、北岸に避退することにした。

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第五十一師団地獄の退却路<水色の線>(昭和18年9月14日から山脈越えに40日間、さらにマダンまで400km)

(四)につづく

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安達二十三中将 (二)

イメージ 1「ひとつは、非常な勉強家だったこと。閣下はいつも二、三百冊の本を居間に並べて置かれました。ヘンペンたる岩波文庫の類ではなく、分厚い歴史書、哲学書が多かった。私ら、やっぱり閣下はちがう、と思うとりました。
 
 もうひとつは、無口でお上手は言われないが、心からの部下想いであることが、私らによく分かっていました。副当番の少年兵が、汽車のコークス暖房の不燃焼で死亡すると、すぐ司令部の暖房を中止され、寒さを我慢しておられたのも、その一例です。決して無理な作戦は承知されず、どうしてもやらなければならないときは、必ず第一線に出られました。この閣下の下でなら、見殺しになることはない、と信頼できました」

 いいかえれば、安達中将が心底に秘める指揮官道の“真髄”は、「人間として実行できる命令を出す、部下が直面する苦難は、指揮官もともに味わう」という点にあったわけで、中将が東ニューギニア陸軍を感嘆させているものも、この“安達式統率”にほかならない。

 安達中将が北支方面軍参謀長から第十八軍司令官に転補され、ラバウルに着任したのは、昭和十七年十一月であった。その三ヵ月後、昭和十八年二月にガダルカナル島は米軍に奪取され、中部、北部ソロモン諸島と東ニューギニアは、にわかに米・オーストラリア軍の脅威にさらされてきた。

 東ニューギニアを守備する第十八軍は、相次いで増兵され、四月には、第二十師団(青木重誠中将)、第四十一師団(阿部平輔中将)、第五十一師団(中野英光中将)、独立混成第二十一旅団(山懸栗花生‐つゆお‐少将)その他約十万人になった。

 だが、この十万人は、十万人としての戦力は発揮すべくもなかった。

 基幹兵力三個師団のうち、第四十一師団は、東ニューギニア中北岸のウェワク、第二十師団はその東方マダン、第五十一師団はさらに東端のアント岬をまわりこんだラエ、サラモア地区に布陣したからである。ウェワク→マダン間約三百キロ、マダン→ラエ間は約五百キロ。その間は険しい山脈とうっそうたる密林におおわれ、各師団はそれぞれ、ジャングルの大海に浮かぶ“孤島”に似た関係にあった。

 安達中将は、ラバウルから海軍機でラエ、サラモア地区の第一線を視察した。ラエに近いホポイに独立混成第二十旅団が配置されていたが、すでにラバウルがあるニューブリテン島と東ニューギニアとの連絡は、米・オーストラリア軍の制空、制海によって困難になって補給が不十分のためか、第二十一旅団の兵は少なからず、ボロボロの軍服に竹の杖という姿であった。病兵が道端に倒れたままになっている。

 安達中将は、涙を流して、しばし休養せよ、と命令した。

 サラモア地区にまわるころ、安達中将はひどい下痢に悩んでいた。北支から赴任してきたころの二十貫(75kg)をこえる巨軀は、すでにだいぶひきしまっていたが、下痢のおかげで日ごとにやせるのが目立った。軍医は、作戦主任参謀杉山茂中佐に、中将は絶対安静を要する、と注意した。参謀は中将に前線視察中止を進言したが、中将は首をふった。

「いや、ありがとう。しかし、行くよ。下痢はがまんする」

「下痢は生理的にがまんできません。せめて一日だけでもやめてください」

「いや、行くよ。下痢はきっとがまんする」

 安達中将は、地下タビをふみしめ、軍刀をにぎって、行く、と主張した。そして、その言葉どおり、真っ青な顔で便意をおさえながら、ジャングル内の夜行軍、スコールの中での露営にも耐えて、第一線視察をつづけた。

「将軍のヨイショ、ヨイショのかけ声は、ドッコイショに変わり、そのドッコイショも出なくなることもあったが、一呼吸一呼吸にがまんを打ち込み、一言のグチもこぼされない。どこまで強い意志か、と胸をうたれた」

 杉山参謀は、そう回想しているが、視察行を終えると、安達中将は直ちに軍司令部をラバウルからマダンに移した。

(三)につづく

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安達二十三中将 (一)

 最近、あまり代わり映えしない“朝鮮問題”に少々飽きてきている。そこで当ブログでは、数日前から大東亜戦争でご活躍された将軍たちを取り上げている。ソースは『指揮官』(児島襄(こじま のぼる:文芸春秋)と『Wikipedia』である。それを要約し主観を交えて記事にしている。だが、今回安達二十三中将を取り上げるに際して、その要約が極めて困難であることに気がついた。要約できないことはないのだが、無理に要約すると、将軍の人間味溢るる現実の姿から内容が遠のいてしまう危険性があるのである。従って、今回は『指揮官』に記載されている文をそのまま、5回にわたり掲載することにした。

安達二十三(あだち・はたぞう)中将 (一)

イメージ 1 オーストラリアの首府キャンベラに、戦争博物館がある。前庭にシドニー港を急襲した特殊潜航艇の残骸が安置され、館内にも、太平洋戦争中の日本軍の遺品が多く展示されている。

 出征のとき贈られた寄せ書き入りの日の丸、鉄帽、水筒、あるいは現地生活に使用したのか「○○上等兵」「△△軍曹」とかかれた木の表札‥‥など。それらの“戦利品”の中で、ひときわ目立つのは、黄色い将官綬のついた数本の軍刀である。名札が置いてある。

 ジェネラル・マサタネ・カンダ‥‥第十七軍司令官神田正種中将の愛刀である。降伏のとき、オーストラリア軍にさしだしたものであろう。次に「ジェネラル・ハタゾウ・アダチ‥‥」と読んだ案内役のオーストラリア陸軍大佐は、威儀を正すと、その軍刀に敬礼した。

 不審げに注目すると、大佐は私にむかってうなずきながら、いった。

「本官は、指揮官として、また人間として、民族をこえ、人種をこえて、このジェネラル・アダチこそ最も偉大なる存在だと尊敬している。彼は、指揮官としての責任の極限を示した、立派な軍人だった」

 ― と、以上は六年前にオーストラリアを訪ねたさいの出来事であり、そのときは、オーストラリア人大佐の言葉の意味がよく分からなかった。が、その後、安達二十三中将について知ることが多くなるにつれ、大佐の賛辞にはいささかの誇張も含まれていない、と承知できた。

 安達二十三中将は、明治23年6月17日生まれ。そこで、「二十三」と名づけられた。陸軍士官学校第二十二期生。近衛歩兵第一連隊勤務を経て陸軍大学校を卒業した後は、参謀本部鉄道課勤めが長かった。

 支那事変が起こると、歩兵第二十二連隊長、第二十六師団歩兵団長、第三十七師団長、そして北支方面軍参謀長と、中国大陸を転戦した。

 厳格な武人 ― というのが、部下の目にうつる安達中将の第一印象であった。

「師団長、中将ともなれば、敬礼もおうようなものですが、安達閣下の場合は、まるで初年兵のようにキチッとした敬礼でしたね。
 なかなかの美食家で、朝・夕食をとどけると、じっと食事を眺めまわされてから、ハシをとられました。それに、朝食前、必ず静かにお茶を立てて一服されました」

 そう想い出を語るのは、中将が第三十七師団長時代の当番兵長だが、当番兵の眼から見る中将は、なかなかの気むずかし屋だった。

 四十をすぎてからタバコを吸いはじめたとのことだが、中将は師団長当時、一日八十本を吸う愛煙家であった。

「ゴールデン・バット」を好み、ただし吸い口をつけて吸うので、当番兵が一本ずつ「ほまれ」の吸い口をはずして「バット」につけねばならなかった。

 週に一回、幕僚と一緒に遠乗りを楽しむが、ある日、落馬して前額部に三針ほど縫う裂傷をうけた。入院中、副官が気をきかせて、日本人マッサージ師をさしむけところ、激しく叱られた。

「民間人をよこして、もし師団長が入院中だと敵に知れたら、どうするのかッ。カネをはらて、すぐ追い帰せ」

 当時の安達中将の写真をみると、眉も眼もやや下がり気味の温顔だが、ゆったりとした肥満体で、なかなかに重圧感に満ちている。

 厳正な態度といい、細かい配慮といい、少なからず“恐い上官”ではなかったと想像されるが、当番兵、土持兵長をふくめて、安達中将を煙たがる部下は少なく、逆に強い信頼感を抱く者がほとんどであった。

 なぜか ― ? 土持兵長は、いう。

(二)につづく


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不敗の将:宮崎繁三郎中将

イメージ 1 「インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。」(Wikipedia)

 この悲劇の原因は、明らかである。作戦計画の不備、兵力の分散、補給の困難、地形の不利、制空権の喪失など、作戦開始の前から、成功は危ぶまれていた。おまけに、第15軍司令官・牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の感情的な指導は、部下指揮官たちとの意見の疎通を欠き、粗雑な作戦計画は、部下をして彼を「鬼畜」とまで言わしめた。

 インパール作戦に関わる高級指揮官は概ね評価が低いが、ただ一人、異論なく高評を受けるのが第31師団歩兵団長・宮崎繁三郎少将(当時)である。「最少の犠牲で最大の効果をおさめるのが、戦闘の根本である。それには量よりは質、質よりは和の体制をとらねばならない」。彼の軍人としての哲学である。実際、宮崎少将はそれを身をもって実践した。

 まずは軍の効率化。もともと優勢で装備も優れた敵に対して、小兵力、劣等装備で突進しようというのであるから、各連隊、各大隊がそれぞれに歩兵も機銃も砲も適当に持つ編成は、かえって不利だと指摘した。三連隊のうちもっとも強い連隊を増強して“必勝連隊”とし、同じく大隊、中隊、小隊、分隊にも中核となる“必勝隊”をつくる。人員も兵器も平等に割り当てる必要はないとし、射撃のうまい者は小銃と弾丸だけを持ち、手榴弾投げに自信があるものは手榴弾だけを十個でも二十個でも持つ。「要するに、これなら勝てると確信がもてるように、思い切った改編をせよ」と命じたのである。

 また「軍隊の優劣は幹部、特に将校の優劣に比例する」とし、部下の訓練とともに幹部教育に力を入れた。例えばある歩兵分隊の訓練では、途中でスコールが降ってきて擲弾筒(てきだんとう:迫撃砲)不発になった。訓練を指揮していた小隊長は「ただ今、擲弾筒射撃は行われているものと仮定する。突撃! 」と号令した。すると、宮崎少将は「待てぃ! 仮定とは何事か! 」と怒鳴った。実戦では“仮定”はあり得ないのである。「形式だけの訓練は、部下に必敗の観念を植えつけるものだ。訓練は、こうやれば成功するという信念を与えるために行うものだ。こんな演習を千万回やっても役に立たぬぞ!」と叱咤したという。
 
 指揮官たちへの指導では、ある作戦に対し、その指揮官たちに問答形式で作戦立案を誘導・伝授したという。中隊長たちが間違った方向へ作戦を立案しようとすると「では、この陣地をどう攻撃するか」といった反問をし、中隊長たちに再考を促した。すると彼らは、少将の指導により、少将から作戦命令を受けたという感じよりも、自身が戦術を考案し、それを少将に認めてもらったというふうに思ったという。少将は自分は裏方に回り、現場での指揮官たちを主役にし、士気を高め戦意を鼓舞させたのである。

 宮崎少将は戦術的にも長けていた。ある夜、少将は敵陣内に一人を潜行させ、大日章旗をひろげさせた。夜明けとともに、敵砲兵部隊はこの陣地に砲弾を浴びせた。同士討ちを画策したのである。またあるときは、インド独立の志士チャンドラ・ポースがひきいるインド国民軍の旗を台上に掲げ、それを英軍に砲撃させて砲弾を消費させる戦法をとった。宮崎少将はこのように無類の策士でもあった。

 宮崎少将は進軍中に部落を発見すると、まず宣伝班を派遣して、村長や村の有力者に日本軍の「インド進行の使命」を説明させ、決して生命財産に危害は加えないと安心させた。また、村の入り口に歩哨を立たせて、兵が勝手に村に入らないようにもさせた。その後で購買班を送り込んで、食糧などを村人から公正に購入したという。そのことが村人たちからの信用を勝ちとり、宮崎部隊の退却時にも大いに力になったことはいうまでもない。

 宮崎少将が部下思いであったことは、多くの文献や証言からも明らかである。宮崎少将は退却中、先に退却した自軍の将兵の道端に転がる多くの死体を発見すると、必ず埋葬し、まだ息のあるものは救え! と命令したという。自らもタンカを持って進んだ話は有名である。また、終戦となり英軍捕虜となっても、部下が英兵に殴られたと聞くと、「一つ殴られたら十殴り返せ! 」と訓示して、英軍側に猛抗議をしたという。

 インパール作戦に関わる高級指揮官に対して、恨みを抱く将兵はたくさんいる(特に牟田口中将に対して)。しかし、一人の餓死者も出さず、部下に一回も敗北感を抱かせなかった宮崎少将に対し、恨みを抱く者は一人もいなかったという。戦後、宮崎中将(途中昇進)は、自らの経歴を誇示することなく、小田急線下北沢駅近くの商店街に陶器小売店を開き、その店主として清廉な生涯を終えた。享年73歳。立派な生涯であった。

 合 掌

追 記
「宮崎閣下とかけてなんと解く」
「男爵と解く」
「そのこころは? 」
「子爵(四尺)以下‥‥」

 宮崎中将は小柄な方であった。手にはいつもペットのサルを抱いていたという。サルのことをビルマ語で「ミャオ」というが、そんな宮崎中将の姿からも、進軍途中に村人から「ミャオ、ミャオ」と親しまれていた人柄が偲ばれる。

参 照
宮崎繁三郎

『 指揮官 』 ( 児島襄:文芸春秋 )

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