祝福のそよぎ

風にそよぐ葦のように、聖書からの祝福の風に吹かれるままを記してみます。

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主よ、私たちの主よ。
あなたの御名は、いかに力強く、
全地に満ちていることでしょう。
82

 神はイエス・キリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずくのです。
フィリピ書2910

 マルコ
31101112
 民数記
14125(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/5;火)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、力強い方。
この方の栄光は全地に満ちているのだそうです。

イエスは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられた方なのだそうです。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで、
〔父である神〕の御思いに従われたのだそうです。
それゆえ、〔父である神〕は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです。
それで、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、〔父である神〕がほめたたえられるのだそうです。


イエスは、安息日(週の最後の日、神が創造の業を終えられて休まれたのを記念して、この日を特別な日とし、神の民も休むようにと、何の仕事もしてはならないと命じられている日)に、会堂に入られたのだそうです。
そこに片手のなえた人がいたので、パリサイ人たち(バビロンの捕囚以降に起こった、神の律法を守ろうと熱心なグループ)は、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていたのだそうです。
イエスを安息日の戒めを破る者として訴えるために。
 そのような中で、イエスは、手のなえたその人に、「立って真ん中に出なさい」と言われ、
それから彼らに「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。
命を救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われると、
彼らは黙っていたのだそうです。
イエスは怒って彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆きながら、
その人に、「手を伸ばしなさい」と言われ、
彼が手を伸ばすと、その手は元どおりになったのだそうです。
そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党(王制派、国粋主義者)の者たちといっしょになって、
イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めたのだそうです。
イエスの権威を認め、手を動くようにしてもらった人とともに喜び、神に感謝するのではなく。

 それから、イエスは弟子たちとともに湖(ガリラヤ湖)のほうに退かれたのだそうですが、
ガリラヤから、また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ(エドム)、ヨルダンの川向う(東側)やツロ、シドンあたりから、大勢の人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとに集まって来たのだそうです。
そして、多くの病気の人がいやされ、
汚れた霊どもは、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫んだのだそうです。
イエスは、ご自身のことを知らせないように、厳しく彼らを戒められたのだそうですが(マルコ3112)。


エジプトを脱出したイスラエルの民。
約束の地の目前のパランの荒野、カデシュまで来て、
モーセは、そこから12部族の族長12人を遣わし、その地を探らせたのだのだそうです。
彼らは、40日かかってその地を巡り、帰って来て、その地は、まことに乳と蜜の流れる良い地だと報告したのだそうです。

けれども、そのうちの10人は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちよりも強いから」と言いふらして民の心をくじいたのだそうです。
そこで、民は、モーセとアロンにつぶやいたのだそうです。
「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。
できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
なぜ神である主は、私たちをこの地に導いて、剣で倒そうとされるのか。
私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。
エジプトに帰ったほうが良くはないか」と。
そして互いに言ったのだそうです。
「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と。

すると、その地を探って来た者たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、自分たちの着物を引き裂いて、イスラエルの全会衆に向かって、
「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。
あの地には、乳と蜜が流れている。
だた、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきになるからだ。
彼らの守りは、彼らから取り去られている。
しかし神である主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」と言ったのだそうです。

しかし全会衆は彼らを石で打ち殺そうと言い出したのだそうです。
そのとき、神である主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れ、主はモーセに仰せられたのだそうです。
「この民はいつまでわたしを侮るのか。
わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう」と。

モーセは主に申し上げたのだそうです。
「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、
この地の住民に告げましょう。
事実、彼らは、あなた、神である主がこの民のうちにおられ、
あなた、神である主が、まのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、
あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。
そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、
あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。
『神である主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、
彼らを荒野で殺したのだ』と。

どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。
あなたは次のように約束されました。
『主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎(とが)とそむきを赦すが、
罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。

 あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、
どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

 主は仰せられたのだそうです。
「わたしはあなたのことばのとおりに赦そう。
しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、
エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしとを見ながら、
このように10度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、
わたしが彼らの先祖に誓った地を見ることができない。
わたしを侮った者も、みなそれを見ることができない。
あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野に出発せよ」(民数記14125新改訳)と。

このようなわけで、イスラエルの民は、約束の地を目前にしながら、
神の御思いについていくよりも、自分の理性による善悪の判断を先立て、自分の思うように行動したため、約束の地に入ることができず、
これから、40年、この時の成人の男子が死に絶えるまで、荒野での生活をすることになったのだそうです。


天の神、主の栄光は全地に満ちており、主は、言われたことはそのとおりを実行なさる方。
このパリサイ人やイスラエルの人たちのように、私たちも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」者になっていて(創世記3522)、
自分の理性による善悪の判断を先立て、神に逆らい対抗して、自分の思うとおりにしていく者ですが、
その私自身である、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものとしていただき、
この、イエスの十字架刑での処刑をとおして私たちに来て下さる、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただき、
イエスが従われたように、その御思いについていくとき、
私たちも〔父である神〕と思いを一つにし、
この方がなされる御わざの一端を担当していく者にもしていただけるのだそうです。
私をとおしても、しようと思っておられることがあるのだそうですから。
今日も。
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