祝福のそよぎ

風にそよぐ葦のように、聖書からの祝福の風に吹かれるままを記してみます。

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アダムと彼の妻は、
主なる神の顔を避けて、隠れた。
創世記38

 心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
マタイ58

 マタイ
121521
 民数記171626(新改訳では17111、通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/8;金)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方(出エジプト314)から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記126)、
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つである」(ヨハネ172122)ものをと願われて造られた人間。

しかし、最初の人、アダムとエバは、与えられていた自由意思で、
その天の神、主との一つになっている場に留まることをせず、
自らが「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となって(創世記3522)、
善悪の判断を、天の神、主と一つにしていくことを止め、
自分一人で、自分の理性の判断で、善悪を決めていく者になったのだそうです。

天の神、主と、思いを一つにしているときには、天の神、主の訪れは、心、ワクワクする、うれしいことだったのでしょうが、
自分一人で、善悪を判断するようになったとき、天の神、主が来られることは迷惑なことだったのでしょうね。

それで、天の神、主が、二人を捜して、エデンの園を歩き回られ、二人を呼ンでおられたとき、
二人は、その主の声を聞いて、主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し、隠れたのだそうです。

そのとき以来、人間の心は分裂し、二心(ふたごころ)となっているようですね。
心の清い者、ピュア、心の単一な者、
二心ではなく、今の、その心になりきっている者は、神を見るのだそうですね。
あの、自分の胸をたたいて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った徴税人、取税人のように。

それで、イエスの弟のヤコブは言うのですね。
「二心の人たち。心を清く(ピュアに、単一に)しなさい」と。

そして、イエスの十字架刑での処刑を私の処刑としていただいて、処刑済みの者としていただき、
三日目に死人の中より復活し、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスがお遣わし下さる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただき、
〔父である神〕と同じ思いを思い、一つの心にしていただいて、
はばかることなく、神に近づくことができる(ヘブル
101522)のだそうですから。
今日も。
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