祝福のそよぎ

風にそよぐ葦のように、聖書からの祝福の風に吹かれるままを記してみます。

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 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
目を造った方に見えないとでもいうのか。
詩94:9

 主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
Ⅰペテロ3:12

 Ⅱコリント12:1〜10
 ホセア書13:1〜14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/6;金)

 私たちは思うのですね。
「神は見ることがない。
神は気づかない。
私たちが善を行っても悪を行っても
何も変わることはない」と。

 けれども、私たちの耳を植えた方に聞こえないということが、
目を造った方に見えないということがあろうかと言われるのですね。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの思い計ることがいかに空しいかを知っておられるのだそうです。

 私たちの心の中は、
神に見られると困るような思いがいっぱいあり、
私たちは祈りを聞いていただけるようなものではありません。

 それで、〔父である神〕は、
その、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を処罰済み、
処刑済み、死んだものとし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、
この方によって、受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
受け入れる者がご自身と一つ思い、
一つ心になるようにしようと計画してくださったのだそうです。

 そして、その計画のとおりに、
〔御子である神〕が、
人間イエスとして、人の世に来られ、
およそ33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
このイエスが受けてくださった処刑を、
私たちの処刑としてくださり、
私たちを処刑が済んでいる者、死んだものとしてくださり、
このイエスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来た、
ご自身の御思いによって生きる私たちを見ていてくださり、
そのを祈りを聞いていてくださるのだそうです。

 けれども、また、パウロのときのように、
すばらしい体験をしたことで、私たちが高ぶり、
古い自分を生かす生き方に戻ってしまって、
滅びに至ることがないようにと、
私たちが自分の弱さを感じるようにも、されるようですね。

 パウロは、
肉体に与えられたとげを去らせてくださるようにと、
三度も主に願ったのだそうです。

 しかし、主は、
「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」
と答えられたのだそうです。

 それで、パウロは、
「ですから、キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
私が弱いときにこを、私は強いからです」(Ⅱコリント12:1〜10)と言うのですね。

 「エフライムが震えながら語ったとき、
主はイスラエルの中であがめられた」(ホセア13:1新改訳)のだそうですから。

 私たちも、自分の弱さを感じることで、
神に、新しい自分に立ち返り、
神を呼び、全部見ていただきながら、
聞いていただきながら、
御思いの中を、
御力におおわれながら進ませていただけるのだそうですから。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

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