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私が教師で『 城の崎にて 』が生徒の提出してきた文章なら、訂正すると書いた。 これに対して、次の様に谷崎潤一郎が真っ向から否定してきた。(注1.) いきなり「 淋しかった。」と入れてありますが、「 自分は 」と云うような主格を置かずに ただ「 淋しかった。」とあるのが、よく利いています。 その後の文も、短く引き締め一層印象がはっきり書けている。 「 淋しかった 」と云う言葉が二度、「 静かな 」と云う形容詞が二度、 繰り返し使ってありますが、 この繰り返しは静かさや淋しさを出すために有効な手段でありまして、 決して無駄ではないのであります。 こう云う技巧こそ芸術的と云えます。 ところが、この谷崎に反論してくれる読者も現れた。 この一節を(谷崎)氏は精しく分析しているが、「 淋しかった 」ということについて、 この言葉を二度重ねたことを評価し、淋しい心境を説明するのに、ただ「 淋しい 」と 言っているだけでなく、くどくどと余計な言葉を費やしていないことを賞めている。 しかし、この文章の前後を読むと、「 淋しかった 」という言葉を削って、 淋しい心境をあらわすことが可能である。 仮に私であったら、迷った末に後者の方法を取ったであろう。 それになにより「 含蓄 」を心掛ける谷崎潤一郎が、こういう解釈をしているのは腑に落ちない。 この反論をしてくれたには、吉行淳之介。谷崎の四十年後である。(注2.) 遅いじゃないか! *----------*-----------* 【私が訂正を述べた記事の再掲】 それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。 他の蜂が皆巣へ入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。 然し、それは如何にも静かだった。 と、くどいくらい「 淋しい 」と「 静か 」を使っている。(注3.) 私が教師なら、最初の「 淋しかった。」は重複していて余分だし、「 然し、」も余計だろう、と。 大体から、文章全体が、たどたどしくて読み難い。 *----------*-----------* 【注解】 注1.『 文章読本 』 谷崎潤一郎著 中公文庫 昭和63年3月1日 23版 p.25〜26 注2.『 文章読本 』 谷崎潤一郎著 中公文庫 昭和63年3月1日 23版 「解説 吉行淳之介」 p.190 注3.『 小僧の神様・城の崎にて 』 志賀直哉著 新潮文庫 平成25年2月25日 80刷 p.30 *----------*-----------* 【城の崎にて】 |
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