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この作品はフィクションなので,作品中に出てくる言葉の定義は,作者の自由だと思います.「術死」の明確な定義は外科学や手術の概念として,本来存在しません.しかし「術後30日以内に死亡した死」と定義するのが,一般的だと思います.それならば作品中の手術中の死は何?ということになりますが,「術中死」という言葉が相応でしょう.
先にも述べたように作品がフィクションであることを考慮すれば,「術死」を術中の死に限定しても悪くはありません.きっと「術中死」では作品上,インパクトが薄れてしまうなどの問題があったのでしょう.だって作者は,元外科医なので「術死」と「術中死」の区別くらい,知っているはずだから!
ところで私は「術中死」に遭遇したことはありません.そのような事が起きない恵まれた職場で仕事をしているからではありませんし,私のキャリアが短いからでもないです.そのからくりについて,以下記します.
もしも私が今までのキャリアの中で,敢えて「術中死」に遭遇したことがあるとすれば,2症例思い当たります.1例は麻酔医として,もう1例は在籍する医局内の他グループ症例として…
前者は麻酔科研修中,担当した自科の症例でした.それは狭心症に対するバイパス術症例でしたが,心拍動再開後もポンプ(人工心肺)を離脱することが出来ません.右壁に術中,新たな梗塞を来たしたため心不全となったからです.術者の先生は教授に対し再三,新たな冠動脈バイパスを置くことを提案しましたが,結局受け入れられず,PCPS注(1)を付けて手術室を退出しました…
後者は腹部の癌の手術でしたが,癌の浸潤範囲が広くその部位まで取りきろうとして,結果的に出血が止まらなくなりました.注(2)その間大量輸血を続けないと血圧が保てず,止血不十分ながらギブアップし,ICUに入室しました…
いずれの症例も1〜2日後に不幸な転帰を辿りました.
しかし上記2例はいずれも医学の発達の恩恵を受け,手術室を生存したまま退出したので,公式記録として「術中死」とはならないのです.
また,外科医は例え厳しいと思っても,諦めずに手術室を出る方法を探るので,「術中死」が回避出来るという見方もできます.例えば心臓の手術の場合,元々その患者さんの心機能が悪い場合が多く,心内操作終了後に心停止を解除しても十分心機能が回復しないこともあります.この時点で外科医が諦めてしまうと「術中死」になってしまいますが,(当然諦めずに)PCPSを装着しCCU注(3)に入室する訳です.私はこのような症例を約3年半の心臓血管外科医のキャリアの中で何例か体験していますが,その多くは数日後にCCUを死亡退院(つまり「術死」)しました.
付け加えれば,CCUでさらなる延命治療がなされ,それに対して患者さんが反応して30日以上生存すれば,「術中死」を免れるどころか,「術死」も免れ,「在院死」として公式に記録されるのです.
だから私は「術中死」を知らないし,だからこそ,この作品の「術死」にこだわったのです…
<注釈>
(1)Percutaneous cardio-pulumonary support device:経皮的心配補助装置.遠心ポンプに膜型人工肺を有する.心不全状態ではポンプとしての機能が低下しているため,自己肺で酸素化した血液を十分に全身に送血出来ない.このため心臓に還る前の静脈血を脱血,酸素化して動脈へ戻す.
(2)食べ物を見ると唾液が分泌されるように,癌を扱う外科医に癌を見せれば,本能的に全て取りきろうと行動します.手術という治療を選択したその患者さんに,少しでも長く生きて欲しいと願うから…
しかしどんなに手術の名手でも,取りきれない場合だってあります.その時「勇気ある撤退」を選択する判断力も,外科医には要求されるのです.そしてその判断をしなければならぬ時,外科医は心で泣くのです…
(3)Cardiac Care UnitもしくはCoronary Care Unitの略:心疾患症例専用の集中治療室
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