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埼玉県児玉町長浜に「大平山興国寺」がある。
山号額に「大平山」とある。
古来から在った薬師堂を、地元の有志、
荘(庄)野六郎右衛門(道円元覚居士)と、笠原弥右衛門(松林元栄居士)が復興し、
寛文十一年(1671)に、館林広済寺の潮音禅師を迎えて中興された寺である。
初代の住持、「観月元心和尚」が早く遷化されると、
潮音禅師は、観月和尚の功績を讃えて、開山を譲ったと云う寺である。
観月和尚は、大隅(鹿児島県)の生まれで,廿一才で曹洞宗の僧として出家し、
はじめは「言象」と名乗って諸国遍参の旅に出た。
関東まで来ると潮音禅師の評判を聞き、
たまたま、江戸大慈庵に居た潮音禅師に相見した。
この時、「黄檗師承」に疑問を以てその正邪を糺すと、
潮音禅師から、『五燈厳統録』(中国の高僧録)を示されて、その理に屈し、
指を一本切断して非を悔いたと云う。
この事は潮音禅師年譜の
寛文九年(1669)の条に、
「夏寓大慈庵 洞宗僧言象 後改観月 参次 論師承正邪 師出厳統微結之
象屈理截一指悔過 ・・・ 」とある。
こうして、門下に入って法名を「観月元心」と改めた。
延宝三年(1675)に真福山寶林寺の住持を命ぜられたが、
天和元年(1682)には、大平山興国寺の住持になった。
寺号額に「興国禅寺」とある。
その頃長浜地方では干ばつで井戸水が枯れ、
困った村人達は、新たに深井戸を掘ろうとしたが、
鎮守の「諏訪明神」の神官は、禍が起るからと掘らせなかった。
これを聞いた観月和尚は、
「諏訪明神がどんなに井戸が嫌いでも、寺の中まで禍は及んで来るまい」と、
山門の内側に深井戸を掘らせたところ、清冽な水が吹き出したと云う。
村人は喜んで、
「黄河の水を治めた聖人禹にも劣らないお方だ」と、
観月和尚に敬慕を深めたと云う。
元禄五年(1692)二月七日、末庵の江戸「寶樹庵」で病に倒れ遷化された。
遺体は荼毘に付され、興国寺運ばれて葬られている。
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