七艸庵 短い間でしたが有難う御座いました。

【正満 英利】2012/8/21 永眠 もう更新は、御座いません

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 黒瀧山不動寺三代を継席した碧湖元達和尚は、
 
 肥前佐賀の生まれ、出家して17才から諸国に行脚した。
 
 寛文7年(1667)、美濃加茂(岐阜県関市)の「大慈山小松寺」で、
 
 潮音禅師に初めて相見し、その会下に入った。
 
 寛文11年(1671)の冬、可児郡下の一寺を復興すると、
 
 「福聚山圓通寺」と改めて、潮音禅師を開山に迎えた。
 
 延宝6年(1678)春、印可されると、源流法衣を持って故郷佐賀に帰り,
 
 栖聖寺を興し、鍋島直弘夫人の法樹院淨蔭禅尼の帰依で
 
 「天壽山寶蔵寺」の住持に迎えられ、
 
 禅尼が入滅すると、遺命で邸を、「天真山淨蔭寺」と号して住持となった。
 
 元禄10年(1697)9月、黒瀧山不動寺三代に推されて継席し、
 
 一住三年住持を勤め、淨蔭寺に帰った。
 
 宝永4年(1707)の冬、弟子の雪村淨呂暴算を譲り、
 
 寶蔵寺に身を引き、翌年春から行脚に出た。
 
 黒瀧山に拝塔した後、江戸本所の其心庵に逗留中に伊藤大徹居士の喜捨で、
 
 上州新田台ノ郷(太田市台ノ郷)に「大乗山慈眼寺」を開き、
 
 更に野州羽刈(足利市羽刈)に「円通庵(北条庵)」を開いた。
 
 宝永6年(1709)7月、肥前の寶蔵寺に帰るべく、黒瀧山に拝塔し、
 
 信濃路をとり浅間山普賢寺の月浦元聖和尚を尋ねたが、
 
 その逗留中に病に襲われ、自ら薬石の効無いと知ると、
 
 月浦和尚の慰留も聞かず、新田の慈眼寺に引き返して弟子達の看護を受けたが、
 
 8月5日に64才で遷化した。
 
 遺言で、月浦和尚が導師と成り、慈眼寺て火葬され、
 
 慈眼寺と寶蔵寺に葬られた。
 
 いま太田市台ノ郷を訪れても其の寺址すら発見できなかった。
 
 足利市羽刈には北条庵としてお堂が残されている。
 
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                北条庵の門柱
 
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                    北条庵
 
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             一か所に集められている塔碑
 

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