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近頃、『禅林執幣集』と云う、
元禄十三年に版行された古書のコピーを入手した。
編者は「花園末葉亡名子」とあって、本名は知られない。
内容は、隠元禅師の来朝によって伝えられた、
臨済宗黄檗派 (いま黄檗宗)が、全国に拡大したのに対して、
二十数項目について批判したものである。
それに潮音禅師の『霧海南針』も、やり玉に上がっていた。
『霧海南針』については後日に紹介する予定だが、
この書の中で 「読霧海南針弁」と云う項目があり、
そこに、編者が木曽路の旅宿で、潮音禅師の教化の姿を見たと、
次のように記している。
「余が木曽路を行脚中に、たまたま旅宿で休んでいると、
黄衣を着け、払子を手にした老僧が、二三人の弟子を伴って来た。
宿のものが潮音和尚と呼んでいた。
彼は、俄に家を借りると戒壇を設け,
法器を鳴らして近隣の無智の男女を集め、
懺悔受戒の教化を作しては、僅かの戒銭と若干の信者を得ると、
次の宿、又次の宿と、戒銭と若干の信者を得て移って行く、
それは、毎日次々と移動して行く、まるで旅役者か猿回しが、
村里の知恵の足りない男女を、
驚き、騒がせているのに似たようなものだ ・・・。」(原文は漢文なので訳す)と、
潮音禅師の教化拡大の様を批判している。
江戸時代に成ると、宗門改めの寺請制度が設けられると、
既成の教団は権力を持つようになり、それが寺院や僧侶の頽廃を呼び起こし、
やがて仏教批判、そして廃仏論と発展した。
この様な中で、新しい宗風を拡大していくのは大変なことであったろう。
僅かずつ信者を増やし、宗風拡大に励んだ潮音禅師の姿か゛
彷彿とする。
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