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寛文六年(1666)の春、
潮音禅師は江戸に迎えられて大慈庵を開いた。
そこに参じた人の中に、
肥前佐賀藩二代藩主光茂の息女仙姫(土居大炊頭利重夫人)が居た。
時に、その仙姫から、潮音禅師の道歌に詠まれている、
「四弘の願」と、「六度の行」に就いて、細かく説明を求められと、
即日筆を執ってその詳細を回答した。
『潮音禅師年譜』には、
「・・・閲 師道歌発心 請細解四弘六度義 師即日取筆書贈 扁曰 霧海南針
鏤梓行干世 ・・・」とある。
『霧海南針』は、仙姫の問いに答えたもので、
寛文12年版のコピー
それが出版されて世に出たものである。
それには、寛文七年仲春吉旦版行されたものと、
重版された寛文十二年十一月吉日山本九左衛門版とがある。
寛文7年版(左)と寛文12年版(右)の奥付 (何れもコピー)
重版されたところを見ると評判も宜しかったと思われる。
その内容は、「四弘の誓願」と「六度の行」、
更に、六波羅蜜の「忍辱」、「精進」、「禅定」、「智慧」に就いて
仮名交じりの文で詳細に説示しているが、
「禅定」の解説中で、「日蓮一向の二宗は日本の新宗にて邪宗なり」と決めつけ、
「古徳の公案を集めて参則と収めた行巻袋、密参箱は、
火事に逢い、或は水に流したら、一大事因縁は悉く一時にめっきゃくす・・・」と、
又鳶や烏が死んだねずみを秘蔵する様なものと、
公案禅を厳しく批難している。
陳玄興の描いた潮音禅師 浅間普賢寺蔵
これが他教団から反撃を受けるのである。
禅学者古田紹欽は、その著書の中で、
「当時の禅界にあって、この人くらいその時代に幅広く生き、
信念に徹して思うことを憚らずいい、かつ行動した人はめずらしい、
・・・・ 黄檗の一宗がその基礎を固めようとした時代、
この人ほど世の注目を受けた人は、なかったのではないか」と、
幕末の頃の小冊子で『霧海南針』と云うのがあるが、
全く別人のものなので、敢てタイトルに「潮音禅師の」とした。
要注意。これは呟き。
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