七艸庵 短い間でしたが有難う御座いました。

【正満 英利】2012/8/21 永眠 もう更新は、御座いません

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 寛文六年(1666)の春、
 
 潮音禅師は江戸に迎えられて大慈庵を開いた。
 
 そこに参じた人の中に、
 
 肥前佐賀藩二代藩主光茂の息女仙姫(土居大炊頭利重夫人)が居た。
 
 時に、その仙姫から、潮音禅師の道歌に詠まれている、
 
 「四弘の願」と、「六度の行」に就いて、細かく説明を求められと、
 
 即日筆を執ってその詳細を回答した。
 
 『潮音禅師年譜』には、
 
 「・・・閲 師道歌発心 請細解四弘六度義 師即日取筆書贈 扁曰 霧海南針
 
 鏤梓行干世 ・・・」とある。
 
 『霧海南針』は、仙姫の問いに答えたもので、
 
イメージ 2
                  寛文12年版のコピー
 
 それが出版されて世に出たものである。
 
 それには、寛文七年仲春吉旦版行されたものと、
 
 重版された寛文十二年十一月吉日山本九左衛門版とがある。
 
イメージ 3
         寛文7年版(左)と寛文12年版(右)の奥付 (何れもコピー)
 
 重版されたところを見ると評判も宜しかったと思われる。
 
 その内容は、「四弘の誓願」と「六度の行」、
 
 更に、六波羅蜜の「忍辱」、「精進」、「禅定」、「智慧」に就いて
 
 仮名交じりの文で詳細に説示しているが、
 
 「禅定」の解説中で、「日蓮一向の二宗は日本の新宗にて邪宗なり」と決めつけ、
 
 「古徳の公案を集めて参則と収めた行巻袋、密参箱は、
 
 火事に逢い、或は水に流したら、一大事因縁は悉く一時にめっきゃくす・・・」と、
 
 又鳶や烏が死んだねずみを秘蔵する様なものと、
 
 公案禅を厳しく批難している。
 
イメージ 1
               陳玄興の描いた潮音禅師    浅間普賢寺蔵
 
 これが他教団から反撃を受けるのである。
 
 禅学者古田紹欽は、その著書の中で、
 
 「当時の禅界にあって、この人くらいその時代に幅広く生き、
 
 信念に徹して思うことを憚らずいい、かつ行動した人はめずらしい、
 
 ・・・・ 黄檗の一宗がその基礎を固めようとした時代、
 
 この人ほど世の注目を受けた人は、なかったのではないか」と、
 
 幕末の頃の小冊子で『霧海南針』と云うのがあるが、
 
 全く別人のものなので、敢てタイトルに「潮音禅師の」とした。
 
 要注意。これは呟き。

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