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延宝三年(1675)と云えば約350年も前の事になるが
その秋、それまで黒瀧山に籠って修行していた
黒瀧山古図
祖源(後の高源和尚)に招かれて、
館林の萬徳山広済寺の住職潮音禅師が、10日ほど説法や授戒などの
法会を開いたところ、3千人もの人が参加した。
右日東巌、左星中巌この間が天壷洞
この法会を支援した砥沢村の市川半兵衛(円慶居士)はじめ、
黒瀧村の白石六郎左衛門(了源居士)、小柏村の小柏八郎左衛門(一燈居士)等は
この盛会さを見て、
「此の山を潮音禅師に奉って寺院を建てよう」と云うことになった。
天壷洞の中に立つ開山堂
この話を聞いた潮音禅師は歓喜して
次のように語ったと『潮音禅師年譜』にある。
「天下の名山大澤(名山幽谷)多くは先徳の開闢(かいびゃく)に係る。
我が大慈(大慈山小松寺)萬徳(萬徳山広済寺)の二山の如きは、
祖翁(隠元禅師)、師翁(木庵禅師)に奉り開山と為す。
今、幸いに百年後、履を葬るの地を得ば、太(はなはだ)老僧の意に適えり。
此の山を見るに、三峰竝(へい)持して独鈷の如く、
一瀑高く懸って凡塵を洗う。骨山前に聳え、肉山後に擁す。
山脈は遠く、信甲武の三州を貫いて最も福地と為す。
東巌、中巌の際に洞有り、風水は尤も佳なり。
此に吾塔を建つれば児孫は綿亘なり。
因つて天壷洞(てんこどう)と名づく 」(原漢文)と、
この言葉に市川半兵衛等は喜んで、
「私等が山門(寺院全体)の外護(支援)をします」と云うことになり、
まず、開山堂が建てられて潮音禅師の像を安置した。
開山堂の潮音禅師の寿像
白石六郎左衛門は、黒瀧山の境内地を布施した。
小柏八郎左衛門は、妻(妙高尼)と共に髪を落して黒瀧山の外護を誓った。
潮音禅師はこの四人を開創開基として肖像を刻ませ、
開山堂の壽像の両脇に安置した。
開創開基の像
黒瀧山は潮音禅師が開山の後、高源和尚がそのまま看寺していたが、
8年後の天和三年秋、潮音禅師が広済寺を退いて此処に移った。
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