七艸庵 短い間でしたが有難う御座いました。

【正満 英利】2012/8/21 永眠 もう更新は、御座いません

全体表示

[ リスト ]

黒瀧山の開山譚

 延宝三年(1675)と云えば約350年も前の事になるが
 
 その秋、それまで黒瀧山に籠って修行していた
 
イメージ 1
                   黒瀧山古図
 
 祖源(後の高源和尚)に招かれて、
 
 館林の萬徳山広済寺の住職潮音禅師が、10日ほど説法や授戒などの
 
 法会を開いたところ、3千人もの人が参加した。
 
イメージ 2
           右日東巌、左星中巌この間が天壷洞
 
 この法会を支援した砥沢村の市川半兵衛(円慶居士)はじめ、
 
 黒瀧村の白石六郎左衛門(了源居士)、小柏村の小柏八郎左衛門(一燈居士)等は
 
 この盛会さを見て、
 
 「此の山を潮音禅師に奉って寺院を建てよう」と云うことになった。
 
イメージ 5
             天壷洞の中に立つ開山堂
 
 この話を聞いた潮音禅師は歓喜して
 
 次のように語ったと『潮音禅師年譜』にある。
 
 「天下の名山大澤(名山幽谷)多くは先徳の開闢(かいびゃく)に係る。
 
 我が大慈(大慈山小松寺)萬徳(萬徳山広済寺)の二山の如きは、
 
 祖翁(隠元禅師)、師翁(木庵禅師)に奉り開山と為す。
 
 今、幸いに百年後、履を葬るの地を得ば、太(はなはだ)老僧の意に適えり。
 
 此の山を見るに、三峰竝(へい)持して独鈷の如く、
 
 一瀑高く懸って凡塵を洗う。骨山前に聳え、肉山後に擁す。
 
 山脈は遠く、信甲武の三州を貫いて最も福地と為す。
 
 東巌、中巌の際に洞有り、風水は尤も佳なり。
 
 此に吾塔を建つれば児孫は綿亘なり。
 
 因つて天壷洞(てんこどう)と名づく 」(原漢文)と、
 
 この言葉に市川半兵衛等は喜んで、
 
 「私等が山門(寺院全体)の外護(支援)をします」と云うことになり、
 
 まず、開山堂が建てられて潮音禅師の像を安置した。
 
イメージ 3
               開山堂の潮音禅師の寿像
 
 白石六郎左衛門は、黒瀧山の境内地を布施した。
 
 小柏八郎左衛門は、妻(妙高尼)と共に髪を落して黒瀧山の外護を誓った。
 
 潮音禅師はこの四人を開創開基として肖像を刻ませ、
 
 開山堂の壽像の両脇に安置した。
 
イメージ 4
                 開創開基の像 
 
 黒瀧山は潮音禅師が開山の後、高源和尚がそのまま看寺していたが、
 
 8年後の天和三年秋、潮音禅師が広済寺を退いて此処に移った。
 

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事