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黒瀧山不動寺の寺宝の中に、『潮音禅師血書の法華経八巻』がある。
延宝五年(1677)十一月十日、潮音禅師は五十才の誕生日に、
館林城主だつた、大檀越徳川綱吉公の請疏(迎え状)を承けて、
館林萬徳山広済寺の祝国開堂(開堂のお披露目式)を執り行った。
記録によると、この日館林城下は、諸宗派の高僧、諸大夫、それに伴う人、
一般の道俗で溢れるばかりだったとある。
その興奮も覚めやらぬ、十二月のはじめ、
肥前(佐賀県)小城の大悲山慈雲寺から、潮音禅師が得度を受けた師、
泰雲和尚の訃報が届けられた。
広済寺の開堂にあたって、慈雲寺の泰雲和尚は、
潮音禅師が老体を気遣って寺に入れた、弟の月浦和尚を、
「汝が居らずに、死することがっても何も恨みはない、
早く関東に赴いて兄の開堂を援けなさい」と、
広済寺開堂を手伝わせに差し向けていた。
『潮音禅師語録』巻五
訃報を受けた寺では、早速、位牌を設けて七日の喪に服し、
月浦和尚を早速慈雲寺に帰らせた。
その時の潮音禅師の言葉が、『潮音禅師語録』巻五に記されている。
「・・・ 郷書の知らせに曰く、老僧、霜月念三日(十一月二十三日)俄に円寂すと、
予は之を聞いて、寝食共に廃して痛哭尤も甚だし、
嗚呼、予は生に師に事(つかえる)こと能わず、滅するに喪に走らず、
況や病中は、汝が薬餌に侍せざるを致し、誠に法中の不孝なり ・・・ 云々」と、
生前は何事も慈恩に酬いる事も出来ず、
亡くなった知らせを受けても、今は官寺に仕える身で、
長期に寺を空けて慈雲寺に帰ることも成らず、
位牌を設けて喪に服し、七日の潔斎を修しても、それだけでは済まされなかった。
『潮音禅師年譜』の延宝五年(1677)の条に、
月浦和尚に命じて云うに、
「汝速やかに肥陽に回り(帰り)、
須らく吾に代わって、期年喪を行ずべしと、
法華経を血書し以て慈恩に酬ゆ ・・・ 云々」とある。
『潮音禅師年譜』 延宝五年の条
この『血書の法華経八巻』は、黒瀧山に隠棲するときも離さず持参したもので、
黒瀧山に深く秘蔵されている。
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