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黒瀧開山の潮音禅師には六十四人の法嗣がいたが、
覚潭真龍が返法したので、六十三人とされている。
その筆頭(長子)は「道林素秀和尚」であった。
次子は覚潭て、潮音禅師の信任は特に厚かったが、
肥前小城(佐賀県小城市)の領主、鍋島紀伊守元武(金粟元明居士)が開いた
「祥光山星巌寺」の住職を命じられて赴任し、その建設から落慶、
祥光山星巌寺三門
開堂式も済ませたが、後任の決め方に不服を申し立て、
意に適わないとみるや、印可を示す「源流と法衣」を黒瀧山に返した。
この問題で、黄檗門から追放されたことは既にブログとたところだ。
それで、今では法嗣は六十三人となったわけ。
さて、その長子の「道林」は、江州(滋賀県)神崎郡の人で、俗姓は三河氏と聞く。
潮音禅師より早く、在家で在りながら瑞石山の一糸文守禅師に参禅していた。
瑞石山永源寺本堂
やがて潮音禅師が瑞石山に登り、如雪文巌禅師の会下で修行し、
山上村の臨川庵を預かると、其処に水や薪を怠りなく運んでくれる老人が居た。
それが後の「道林」である。潮音禅師より廿八才年長であった。
ある時、老人は、「家は貧しくて文字を学べなかったので文字は知らないが、
仏の道を悟ることが出来ますか」と尋ねた。
潮音禅師は、「上々の人にも、下々の智あり。下々の人にも上々の智あり。
私達の教えは、智愚を論じない。老若を撰ばない。
富貴貧賤に拘りなく、信ずる者は悟れる」と、云った。
この言葉に、老人は歓喜して潮音禅師に随って坐禅に打ち込むようになった。
万治三年 (1660)、既に美濃小屋名(岐阜県関市)の萬亀山臨川寺に迎えられた
潮音禅師の像 大慈山小松寺蔵
潮音禅師は、その翌年、荒廃した「大慈山小松寺」の再興を請われると、
その営構を道林に任せた。道林は、小松寺の一隅に「萬松庵」を構えると、
十方に募化を募り、自ら土を掘り石を運んで、数年にして小松寺を再興し、
潮音禅師を迎えた。
大慈山小松寺本堂
前年から、館林広済寺を尋ねていた道林は、ここでへ発病し、
延宝二年(1674)正月十九日、亡くなった.世壽七十八才だった。
塔碑は関の小松寺にある。
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