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【正満 英利】2012/8/21 永眠 もう更新は、御座いません

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 黒瀧開山の潮音禅師には六十四人の法嗣がいたが、
 
 覚潭真龍が返法したので、六十三人とされている。
 
 その筆頭(長子)は「道林素秀和尚」であった。
 
 次子は覚潭て、潮音禅師の信任は特に厚かったが、
 
 肥前小城(佐賀県小城市)の領主、鍋島紀伊守元武(金粟元明居士)が開いた
 
 「祥光山星巌寺」の住職を命じられて赴任し、その建設から落慶、
 
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                    祥光山星巌寺三門
 
 開堂式も済ませたが、後任の決め方に不服を申し立て、
 
 意に適わないとみるや、印可を示す「源流と法衣」を黒瀧山に返した。
 
 この問題で、黄檗門から追放されたことは既にブログとたところだ。
 
 それで、今では法嗣は六十三人となったわけ。
 
 さて、その長子の「道林」は、江州(滋賀県)神崎郡の人で、俗姓は三河氏と聞く。
 
 潮音禅師より早く、在家で在りながら瑞石山の一糸文守禅師に参禅していた。
 
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                  瑞石山永源寺本堂
 
 やがて潮音禅師が瑞石山に登り、如雪文巌禅師の会下で修行し、
 
 山上村の臨川庵を預かると、其処に水や薪を怠りなく運んでくれる老人が居た。
 
 それが後の「道林」である。潮音禅師より廿八才年長であった。
 
 ある時、老人は、「家は貧しくて文字を学べなかったので文字は知らないが、
 
 仏の道を悟ることが出来ますか」と尋ねた。
 
 潮音禅師は、「上々の人にも、下々の智あり。下々の人にも上々の智あり。
 
 私達の教えは、智愚を論じない。老若を撰ばない。
 
 富貴貧賤に拘りなく、信ずる者は悟れる」と、云った。
 
 この言葉に、老人は歓喜して潮音禅師に随って坐禅に打ち込むようになった。
 
 万治三年 (1660)、既に美濃小屋名(岐阜県関市)の萬亀山臨川寺に迎えられた
 
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              潮音禅師の像 大慈山小松寺蔵
 
 潮音禅師は、その翌年、荒廃した「大慈山小松寺」の再興を請われると、
 
 その営構を道林に任せた。道林は、小松寺の一隅に「萬松庵」を構えると、
 
 十方に募化を募り、自ら土を掘り石を運んで、数年にして小松寺を再興し、
 
 潮音禅師を迎えた。
 
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                 大慈山小松寺本堂
 
 前年から、館林広済寺を尋ねていた道林は、ここでへ発病し、
 
 延宝二年(1674)正月十九日、亡くなった.世壽七十八才だった。
 
 塔碑は関の小松寺にある。
 

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