明日へのうた

労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

「フラリーマン」現象を喜んでいるのは誰か

 昨日かな、NHKの「おはよう日本」で「フラリーマン」現象を取り上げていた。定時に仕事が終わってもすぐ帰宅しないで街をふらつくサラリーマンを「フラリーマン」というのだそうだ。おれたちの現役時代も仕事が終わっても家へ帰らず、友だちや上司と連れだって居酒屋やスナックをハシゴするなんてのはよくあったが、フラリーマンはそれとはちょっと性質が違うらしい。1人の行動なのだ。

 かれらはどこで「ふらり」とするのか。番組ではゲームセンターや家電量販店などで時間を潰すおじさんたちのの映像をとらえていた。なぜまっすぐ家に帰らないかとの質問に「いや別に・・・」となんとも煮え切らない。妻子ら家族も遅くなることに別段不満がないようだ。なら別にいいじゃないか。

 しかしこの「フラリーマン」現象、おれは番組を観ていて《やはり放っとけない》と思った。日本人の人間関係のどこかが壊れちゃってる気がするのだ。一杯飲みに行く金がないとか一緒に行く友だちがいないとかいろんな理由があるのだろうが、その根底のところに人間不信があるように思うからだ。

 何故人間不信になるのか。それは労働を通じた労働者同志の連帯感の欠如なのではないかと思う。サラリーマンの多くが自分のデスクの範囲でしか仕事をしない。隣の同僚との連絡もメールで済ます。会話がない。そのくせ仕事の進み具合や勤怠はきっちりパソコンのデータで監視されている。こうなったら自分の身を守るためには、自ら垣根をつくって人との接触を拒むしかない。一刻も気が抜けないのだ。

 そこで仕事が終わる。無気力と解放感がどっと襲う。1人で街をふらつく。ゲームセンターや家電量販店は人と交わることなく時間が潰せる恰好な場所だ。フラリーマンはそこでやっと自分の顔を取り戻せる。

 いつからこんな現象が生まれたのだう。おれは労働組合がストをやらなくなった1980年代後半あたりからではないかと思う。春闘になれば電車が止まったり、工場地帯に赤旗が林立したりするのが当たり前だった時代。ストに参加した労働者だけでなく、その何十倍、何百倍の労働者に連帯の気持ちをもたらした。

 労働者同志の連帯は社会全体の連帯へとつながった。仕事が終わって仲間と赤提灯に飲みに行き、上司の悪口をいうのも連帯感の一つの発露だったのだとおれは思う。「フラリーマン」現象を喜んでいるの資本や権力ではないか。労働者が連帯して社会に反抗する気力がなくなっているのだから。

 


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