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山本周五郎『ながい坂(上)(下)』(新潮文庫、1971年)は江戸時代後半の小藩を舞台とした長編時代小説である。主人公は下級武士の息子であるが、8歳の時に上級武士の家人から受けた屈辱を忘れず、学問や武芸に励む。主人公は優秀であるが、オールマイティな優等生とは異なる。立身出世を目指すようであるが、通俗的な上昇志向とは異なる。この点は「内蔵允留守」「青竹」のように世間一般とは異なる価値基準で能力のある人を描く著者らしい。
贅沢を否定する主人公の美意識は心地よい。単純な料理でも心がこもっていて人を感嘆させる(上巻539頁)。味と価格が比例するという類の浅ましさはない。贅沢を否定する美学は庭にも表れている。「自然のままの、少しの気取りもない野末のけしき」を以下のように評している。「どんなに費用をかけ、贅をつくして造った庭も、このけしきには遠く及ばない」(下巻12頁)
上巻では、あまり良い関係ではない人間から別れ際に「気をつけて」と呼びかけれて不快感を覚えたとの描写がある。「ひやっと肌寒さを感じた」「耳を塞ぎたくなる」とまで言っている(212頁)。表面的には「気をつけて」と呼びかけることは悪いことではないが、相手に面倒をかけておきながら、表向き配慮しているかのようなアリバイ作りの欺瞞を感じることがある。本書は人間心理を突いている。
主人公は家族との関係は駄目だが、社会では有能である。よく「斉家治国平天下」「慈善は家庭から」と言われるが、主人公には該当しない。そのようなパターンもあるだろう。あれもこれもを目指さなくても良い。
著者は江戸時代の情緒を描く名手であるが、本書は現代小説的である。主人公は自我を持ち、生き方に悩む近代人的な心理を持つ。下巻では藩の秘密が明かされる。確かに藩にとって重大な問題であり、時代小説では暗闘が起きておかしくない問題である。ところが、本作品は生きることの目的を問うような深淵なテーマを抱えているため、必死に隠されてきた秘密がつまらないもののように感じられる。
庶民はギリギリの生活に苦しむ一方で、大商人が家老と結託して藩を牛耳る。これは既得権益から利益を得る現代日本の官僚資本主義に重なる。御用商人は藩から独占権を得て、莫大な利益を上げている。独占権には業界の庇護者としての責任があるという名目になっている。「ところがしばしば、その「責任」は「権利」に転用され、業者を庇護するより、かれらを支配し、思うままに操縦する、という結果があらわれるようであった」(540頁)。これは現代日本の公共性の論理と重なる点がある。故に規制緩和が改革として求められる。
ところが、下巻では独占が廃止された結果、江戸や大阪などの大商人が買い叩き、地元の業者は資金繰りが困難になったという(131頁)。主人公は改革前の腐れ縁の政治の方が領内を豊かにしていたと語る(139頁)。この改革は御新政と表現されている。まるで明治維新後の混乱と疲弊を先取りしたようである。
一方で現代の視点ではグローバリゼーションの弊害と語られるような事態である。それでも古いしがらみに叩かれ、苦しめられた側としては、やはり改革を志向したい。そのような立場からは主人公と旧勢力の特権商人が共闘する展開は萎える。特権商人も代替わりし、親世代とは異なる価値観の息子世代が登場したことは救いである。主人公も「元に戻すのではなく、新しい一歩を踏み出すこと」と位置付ける(368頁)。
最後はアルコール依存症患者の禁断症状克服の描写もある。この点でもアルコール依存症や危険ドラッグなどの薬物依存症を抱える現代的である。一方で主人公は芯からダメな人を切り捨てる薄情なところもある。あれもこれも救うオールマイティーではない。
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