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M氏の慰霊行脚

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知人で歩きお遍路のベテランM氏がいる。
還暦を過ぎてからすでに五回ほど四国88カ所巡りを成就しているけれど、東北が被災後は、仲間と連携して食品メーカーから何千食ものレトルトパックを無償提供してもらい、それをトラックに乗せて福島の名取などへのピストン輸送に忙しい。そんな彼がこれまた白装束に身を固めて8月20日から、合計16泊で約520キロの道のりを歩く受難者慰霊の旅に出た。そのルートは青森県八戸を出発して福島県南相馬市まで。そのときの写真を先日見せてもらいながら、行き先々で紡ぎ出された多くの物語を語ってくれた。被災地の海岸端を身一つで歩く旅人は彼の他にはさすがにいないらしくひどく目立つ。それゆえ家を流された人々がよく声をかけてくれたり、親切に握り飯や漬物を差し入れてくれたりもしたという。ともかく自販機が全滅状態で飲み物の確保は難しく、夜は街灯も灯らないので日暮れまえに寝場所を確保しないといけない。大概、安全な平地は少なく、途中で震度5の地震にもあい、そのときは近所の人からそんな場所で寝ていたら津波にさらわれると注意されて、高台に移動した。それ以外はほとんど橋の近くや畑の脇やお寺の片隅、津波で線路が破壊されて無人のままの駅の待合室に独り用のテントを張って寝るのだが、私なぞは被災地で野営など想像しただけでも、とても恐ろしくて出来ない。私自身が前に夜の闇に沈む気仙沼の被災地域へクルマで迷い込み、ぞっとした体験があるからだ。当然ながら行方不明者の魂があちこちをさまよっていないわけはない。
 昼間の彼は道すがらに壊れた家や、花を供えた場所を見つけては、そこにお線香を灯し、お経を上げた。その姿をたまたま目にして涙を流す方もいれば、一緒に食事をしましょうと誘ってくれた人もいた。とはいっても食堂などある筈も無い。コンクリの基礎土台だけ残った場所に腰掛け、ここが我が家だったんですよと、老夫婦は弁当を広げて彼にも「さあどうぞあがってください」と、どこかままごとみたいになりながらも勧めたそうだ。みな、被災や親族を失った悲しみを内に秘めつつ、日常を少しずつ手探りするみたいに、確かめながら小さな営みを重ね続けているのだ。

 M氏にとってあの北上川河口に近い、大川小学校はどうしても慰霊に訪ねたい場所だった。しかし、そこの手前に架けられた橋は半分が流されて小学校のある対岸に渡れない。仕方なく、ヒチハイクを何度も試みながら、30kmちかくも迂回して近づいた。その道すがら、一台の乗用車が歩く彼と速度を合わせて、ゆっくり並走しながら「どちらへ行かれなさる?」と声をかけてきた。M氏は慰霊の旨を告げると、運転手の男は、「お線香やローソクは持っているのかね」と聞いてきた。すべて用意していると答えると、男はようやくクルマを止めて、M氏を助手席に座らせてアクセルを踏んだ。
 あの児童一人と教員一人だけを残して全員が命を落とした大川小学校には、心ない冷やかし見物人がひと頃、大勢押し掛けた。ネット上にもそうした画像が散見できるが、子を亡くした親御さんからすれば、居たたまれない気持になる。それもあっておそらく、M氏は地元民から慰霊の真偽を確かめられたのだろう。被災現場に向かう車中で、運転手の男は、自分の子供がその学校の児童だったことを初めて明かすと、どっと滂沱の涙を流したという。はるか600㎞以上も離れた飛騨から、慰霊のために徒歩でやってきた男の、生真面目さに感激し、またその気持を有難く感じたにちがいない。http://img4.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/6b/ce/shourinji88/folder/388875/img_388875_26300436_0

 そうして被災地を巡ると、自分の不幸よりも、もっと悲惨な不幸を背負ってしまった人々の心情を思い遣り、「私の不幸など、まだ大したことはありませんよ」と謙遜とも遠慮ともつかない
言葉で自らを励ます面々によく出会うという。つまり、遺体が見つかり、それを葬れただけでも
有難いことなのだと、人々はそれを言葉に出していう。あの一万数千名にのぼる死者と、6千名ちかい行方不明者の記憶が、現地ではこうした形で交錯しながら、労り合いが続いているのだ。

 その後、M氏は旅の後半から何ともいえない疲労感を味わうことになる。野宿の連続で満足に風呂も入れないから疲労も溜るにちがいない。わずか5㎏のテント一式と最少限の食糧と水だけを背負っているはずなのに、その重みが異様に重く感じられた。そのときの話をしながら、ふと彼は何かに気づいたような顔をした。おそらく成仏しきれない多くの魂が、慰霊する彼にすがりついているにちがいないと。しかし、それをとりたてて大げさに気にするでも、恐れおののくでもなく「それならなるべく早く、四国巡礼の旅にでて、その魂を天に返さないといけないな」と
爽やかな日焼け顔が笑った。被災者の体験談に耳を傾けて丁寧な聞き役になるもよし、個人的に見舞金を届けるもよし、いまだ救われないさまよえる魂を鎮めるもよし。まさに3・11という国難に多くの人々が痛みを分かち合い、南北4000kmにもおよぶ日本列島のなかに柔らかな同胞意識を育みつつ、それぞれのやり方で総力をあげて向合い始めていることだけは間違いない。
 そこに政府も官僚も制度も企業理念も壊れかかった日本の、ただひとつの明るい希望を見いだすのは、おいどんだけではござりますまい。合掌。http://img4.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/6b/ce/shourinji88/folder/388875/img_388875_26300436_2

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   ご無沙汰しております。
   最新の画像製作のダイジェスト版をご覧あれ。
   なお、レミングハウスから本篇がDVDで発売されます。
   お問い合わせ先は、dvd-yoyaku@lemminghouse.com
です。

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再会と別れ

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こちらは北海道の戦後混乱期を生き抜いた元・岩見沢農業高校の伝説的番長の
       早川季良さんです。炭坑マンとして闇を掘り進み、肺にまで石炭粉を蓄え、
       その塵肺をものともせず、石炭画を71歳の今も元気に描き続けています。

すっかりブログ更新がおろそかになってしまい、皆様もうしわけありません。
 この一月間、移動につぐ移動で目の回る忙しさでした。
 暑いなかを富山、北海道、そしてあちこち出かけてくたびれてしまいました。
 鹿児島弁ではこれを「あっちゃ、こっちゃ、さるもしたい!すったいだれもしたい!」といいます。
 まあ、最近の若い方は口にしないでしょうけど、西郷ドンの頃はこんな言い方をしたのです。
      とても残念なことに椅子づくりの名人・村上富朗さんは7月3日に他界しました。享年62、合掌
  世田谷区等々力の大平農園の当主大平博四さんは、3度目のお盆を迎えました。それにしても何と格調の高い、お盆の様式を東京で守っていることでしょう。実は大平さんは婿養子で、元々のご出身は、福島第一原発の避難地域に含まれている大熊町です。戦後まもなく結婚された頃、奥さまが常磐線を乗り継いで富岡駅に降り立ったとき、それはそれは素晴らしい海辺の景色が前に広がり、うしろには水田が広がっていたそうです。けれど、いまは津波被害の片付けもままならないまま、住民が全員、会津などの避難先に暮らしているそうです。旧姓、大和田さんだった博四さんの親戚の方々もみな大変な目にあい、苦労されているときかされました。右下の少年の写真は、大平さんではなく、長野県丸子町で幼少を過ごした村上富朗さんの姿です。なんとお茶目で可愛いことでしょう。病気に苦しめられた晩年もとても可愛い方でした。そんな天才的な職人の最後の椅子づくりを記録させてもらい、なにかとても大事なものを受け取った気がしてなりません。その話はまた、近いうちに。おいどんの夏が心の中を、熱い風となって駆け抜けていくとです。みなさん、長生きしましょう。
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家具作家・村上富朗さんの椅子100脚以上を集めた素晴らしい会が6月18日に長野県東御市で催された。会をサポートしたのは、家具作家仲間の谷進一郎さん、建築家中村好文さんや、新潮社の元編集者松家仁之さん、工芸作家三谷龍二さんなどなど、大勢の人々。そして椅子のオーナーたちもほぼ全員集まり、自分たちの物語を熱く語った。来月17日18日には、東京青山のLIGHTBOX STUDIOでも「木の椅子たち展が催される。そこには物づくりと人の結びつきとの、理想的な関係が醸し出される。そう、船大工さんたちの手がけた木造船のように。、

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6月9日早朝、東京から気仙沼に向かい、最終電車で帰宅した。
 いまは気仙沼市唐桑町となった、唐桑半島で木造船を550隻以上も作りつづけてきた岩渕文雄棟梁が6月7日午後に亡くなったからだ。享年79。被災地で葬式をあげることの大変さを垣間みた気がした。通夜といいつつも、その日の朝一番に荼毘にふして、午後二時から夜7時までという変則的な通夜なのである。翌日の告別式も午後二時開始。かつて故人の近所に住んでいた唐桑町宿浦からの参列者たちは、10キロ以上も離れた岩月地区のその葬儀会場に足を運ぶだけでもたいへんそうだった。生活してきた地域が津波でばらばらに分断されて、インフラもずたずたになってしまうと、こういう困ったことがいろいろと起きるにちがいない。岩渕さんの奥方は、なによりも広い自宅を失い、遠来からの参列者と夜静かに故人の思い出を語れないことを心から残念がっていた。まったくその通りだとおもう。泊まれる適当な宿さえ、市内には少ない。もしも話しだせば語り尽くせないほど、記憶が蘇る。その悔しさを、今月27日、大阪で催す『唐桑 海と森が育んだ暮らし』の場で晴らそうと思う。6/27 (月)18時半〜、LIXIL大阪水まわりショールームイベントスペースにて。問い合わせ先 06-6943-1877/事務局 karakuwa.satoumi@gmail.com
主催:里海再考プロジェクト 協力:住みよいまち&絆研究所、INAXギャラリー大阪
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ありがたいことに、大阪のINAX関係者が被災地見舞いの報告会を企画してくれて、その周囲に集まる建築家たちがかつて、唐桑でどんなに豊かな暮しが営まれていたかを、知りたいと思ってくれたのだという。永々と営まれてきたかつての暮しを知らずして、今後の復興プランを考えたり立てたりするのもたしかに不自然である。つまりはその豊かさの原点にまず気づき、そこからすべてははじまるべきだと。2004年に大阪・名古屋・東京と巡回した『唐桑 海と森の大工』展がこうした形で発展していくとは、想像だにしなかった。津波と地震によって、当り前にあるし、当り前に今後もつづくと思われてきた唐桑半島の豊かな暮しががけっぷちに立たされてしまったのだ。

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それより遡ること一週間前、飛騨のちいさな書店で詩の朗読会が開かれた。
 岐阜県瑞浪市に住む若い詩人・大泉その枝さんは、いまだこりずに中国電力がむりやり上関原発を作ろうとしている、瀬戸内海沿岸の祝島に足繁くかよい、そこでの海に寄り添う人々の豊かな感性が導き出す暮らしぶりを目の当たりして、なんとしてもそれを壊してなるものかと、詩を書きとめて、一冊の詩集にまとめた。タイトルはPunjel.「馬鹿げた問いをする前に、過去と今とをひも解いて、真実と未来へ近づいてゆけ」とは彼女のことば。
たいへん音楽的な美声の持ち主で、朗読をききながらうっとりとした。詩がひとつのドキュメント記録として機能している姿は素晴らしい。それにもまして、朗読を介して記憶という、生きた情報になることは、本来、ことばのもつ力づよさの証明でもある。そのことにその晩、気づいた。記録よりも、記憶に留める仕組みをもっと大切にしないといけない。いつもどこかで誰かが必ず犠牲になるような、そげんばかげた効率主義はもうぼちぼちやめにせんと、いかんのではなかですか。
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