和田城 (紀伊)(所在地) 和歌山県東牟婁郡太地町太地 (形状) 丘城 (別称) 和田館・東屋敷 (築城者) 和田蔵人鎌倉時代初期,建暦3年(1213年)、相模国の三浦氏の氏族である和田義盛が、 北条氏の陰謀を打倒するための挙兵。そして討死してしまう和田合戦がありました。 一族も次々と討ち死にする中、めざましく奮戦した義盛の子である朝比奈義秀は安房逃れ、 さらに南海へと漂流中に熊野沖で暴風雨にあい、現和歌山県の太地町の夏山に漂着します。 その後、同じ太地町の東上野に移り和田城を築城したと伝えられてます。 この城は和田氏代々が室町時代末期で居住し、のちに麓の屋敷へと移ったと思われます。 →【地図】 城郭大系の「上野高塚と呼ばれる所」「遺構ではないが、鯨の見張所の石垣がある」という事から、 太地湾を見下ろす事の出来る丘上の古式捕鯨高塚連絡所跡がそうではないかと、勝手に推測^^ ここからなら後に鯨見張台を造るだけあって湾が一望でき、城を築くにはいい場所かと思います。 まぁ〜あくまでも場所は推測ですけどね(笑) 和田氏の史跡は残ってるのに、和田城の事は城郭大系にしか手掛かりが無いのが残念。 次は、和田氏の屋敷跡と呼ばれてる所があるので行ってみましょう〜(^^)// 先程の丘上から太地漁港に降だると、和田の石門という岩のトンネルがあります 紀伊風土続風土記には「和田の岩穴 村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。 内に入れば村居に適せり。和田氏住居せし所といふ。」とあり、 この石門の内側に4,5千坪の和田氏の屋敷があったそうです。 順心寺にある和田頼元の墓 ここ太地町では名族和田氏、戦国武将和田氏、和田合戦の和田氏より、 組織的な古式捕鯨を確立した和田氏として名が知れわたってます。 この太地和田氏の御子孫の方の家系図によると、 朝比奈義秀から11代後の和田忠兵衛頼元が、慶長11年(1606年)に 知多の漁師,伝次や堺の浪人,伊右衛門と共に大々的に突捕り法による 日本で初めての捕鯨組織集団「刺手組」を結成したことに、 太地の鯨漁の歴史は始まります。 このお墓は、創始者である和田頼元のもので、漁港に近い順心寺にあります (写真は太地町HPから借用) 紀州藩の保護のもと太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。 しかし、200年後の明治11年(1875年)、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨を追う為、 総勢184名・19隻の総出で出漁しますが、驚き暴れる鯨はなかなか仕留める事が出来ず、 ようやく仕留めた時は沖に流されており、水も力も尽き、荒れ狂う海に次々と沈んでしまいます。 この事故で、生存者はわずか13名,餓死12名,行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。 この事により突如として100余名の働き手を失ったこの小さな漁村の捕鯨は幕を閉じます。 って思う場所で、山下の漁港正面辺りが岩門で、和田屋敷があった場所です。 以上が和田城、和田屋敷の紹介でした^^
今回の和田城の場所には悩まされました〜。城郭大系にもしっかり載ってるのに イマイチ場所が分からず、ここかなぁ〜って所で終えたのがチト悔いが残りますが 旅行中で、そこまで時間がとれないので仕方なかったです。 どちらかというと鯨漁の和田頼元の史跡の方が充実しており、和田屋敷の岩門は 屋敷跡の門として相応しい重々さが感じれました。 くじら博物館にも行ったせいか、和田合戦の武士の和田氏のイメ−ジから、 捕鯨の和田氏のイメ−ジの方が強くなりました(笑) あっ そうそうこの太地和田氏も捕鯨に力を入れる前は武士として堀内新宮城の堀内善氏の 配下として朝鮮出兵や関ヶ原にも参加してます。^^ ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
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そういえば和田合戦の後、和田一族がどうなったのか調べたことありませんでした・・・♪
なるほど、勉強になりました^^。
捕鯨を生業としたのかと思いきや、やっぱり武士の血筋なんですね、朝鮮出兵、関ヶ原にとその名を残しているなんて♪一族の歴史・・・ロマンですねぇ〜…^^♪
2012/3/30(金) 午前 6:17
和田城って、聞いたことはあったんだけど、場所がハッキリしてないんだね!!
この石門は、見たことがあります。
これって、門っていうよりも、トンネルだよね(爆)
見た時は、ビックリしました!!
和田氏って、武士から捕鯨に転向した人なんだねぇ〜〜〜
あまりよく知らなかったです(^^ゞ
何でもそうだけど、最初にやった人って、本当に凄いと思います!!
全ポチ☆
2012/3/30(金) 午前 11:49
こんにちは✿*^-^*
ゆーみん歴史好きなので
とても興味深く読ませていただきました☆
お写真趣があって素敵ですね☆
ポチッ♦✿+。:;゜;:。+✿*。・:*:・゜★*
2012/3/30(金) 午後 0:15
和田の石門、岩と石垣が融合した独特の造り
ですね。興味深いものがあります。ALLポチ☆
2012/3/30(金) 午後 0:48
こんばんは!
和田の石門、迫力ありますね!
石門の向こうに4,5千坪の和田氏の屋敷もすごいな。(想像中・・・)
和田城、おしょうさんの思っているあたりにありそうですね。。。
ぽち☆
2012/3/30(金) 午後 8:08 [ もーろーろー ]
ここが和田一族が流れ着いたところなんですね。最初は武士として、その後は捕鯨を生業にして生き延びていたんですね。さすが鎌倉以来の名族ですね。古式捕鯨高塚連絡所跡の石垣は最初、和田城の天守台の跡かと思っちゃいました。
2012/3/31(土) 午前 11:21 [ - ]
ウーンさん こんにちは。
前に、ウーンさんの記事で三浦氏か和田氏に触れてませんでしたっけ?
それが、ちょっと気になってました〜
和田氏はこちらで水軍も持ってたらしいので、それが集団捕鯨に繋がったらしいですよ〜
こちらでも武士であたのが嬉しいですね♪
2012/3/31(土) 午前 11:59
NAOさん
ありがと
そうそう〜 地元の地理感があるなら解るかもしれないけど、
自分には無理でした^^;
あっ この門…トンネル(笑)はびっくりだよね!
この先に、どんな屋敷があったのか想像しちゃう^^
和田氏の捕鯨への転向は関ヶ原の後で、
これからの時代を見据えたいい考えだったと思うね!
この一族は、どの時代でも凄かったんだね♪
Wぽち
2012/3/31(土) 午後 0:10
ゆーみんさん こんにちは。
ありがと
そう言ってもらえて嬉しいな♪
これからも、マイナーな城記事を含めて紹介していくからよろしくね!
あっ 内容は薄っぺらだけどね(笑)
ぽち
2012/3/31(土) 午後 0:15
宇喜多殿さん
ありがと
波の浸食で出来たのか、自然の芸術ですね!
ほんと興味深い石門でした^^
Wぽち
2012/3/31(土) 午後 0:18
和田の石門とても見事ですね。
これだけでも見る価値はありそう。
ポチ☆
2012/3/31(土) 午後 2:11
和田氏の史跡は残ってるのに和田城の事は城郭大系にしか手掛かりが無いのが残念ですね^_^;
和田の石門は何とも見応えがありますね!!!
ポチ凸
2012/3/31(土) 午後 9:11
あれ、どうでしたっけ...^^; ごめんなさい、思い浮かびません^^;)
桓武平氏三浦一族そして和田氏ともに東北には所領を賜っていないと思いました、和田氏の一族が越後国に逃れたってことはあったような、なかったようね...^^; 私のブログはあまり東北からは出ていないので、パッと浮かびません、すみません…^^♪
2012/4/1(日) 午前 10:25
もー妻さん
どんな屋敷を想像出来たかな?^^
役所的な建物など、いくつもの建物から構成されてる感じだったんじゃないかなぁ〜
仮想和田城の位置があってれば嬉しいんですけどね^^
ポチ☆ありがと
2012/4/2(月) 午後 11:39
はまっ子さん
武士に捕鯨に、生きていく道を開いていくんですから和田一族は凄いですよね!
高塚連絡所跡の石垣が城の遺構だったら嬉しいんですけどね〜^^
2012/4/2(月) 午後 11:44
ピ−スさん
この石門は波の浸食などで出来たんでしょうね〜
自然の芸術として見るだけでも価値ありそうです♪
ポチ☆ありがと
2012/4/2(月) 午後 11:46
かおりん
そうそう城郭大系しか載ってないんだよね〜
誰か地元の方でも、ちゃんと調べてHPに掲載してほしいなぁ^^
石門は、なかなか見事だったよ!
ポチ☆ありがと
2012/4/2(月) 午後 11:48
ウ−ンさん
あっ 多分、自分の勘違いだと思います^^:
な〜んか、三浦半島に行った時にでも行って来ますね〜ってコメした感じがしちゃって。
越後国説や唐説もありますね^^
コメ返ありがとうごさいました。
2012/4/2(月) 午後 11:51
和田一族のお寺順心寺へお参り、1年3回春秋お盆、今年でちょうど60年目、3月21日は春の彼岸、18にちの日曜日にと。振り返れば180回+アルファ、まめで過ごせたからこそ、ご先祖様にに大感謝。
2018/3/11(日) 午後 5:18 [ sw_***** ]