総社城 (上野)(所在地) 群馬県前橋市惣社町総社 (形状) 平城 (別称) ――― (築城者) 秋元長朝総社城は、関東上杉憲盛氏,北条氏と仕え、秀吉の関東征伐では深谷城主として敗れて、 浪人となっていたところを井伊直政の推挙により徳川家に仕えた秋元長朝が、 慶長6年(1601)に、一万石の大名として蒼海城を廃し、父影朝の眠る地である利根川崖端と 越後道街村との間に築城した事に始まります。 築城に6年を掛けた城の規模は総郭南北780m、東西750mの同心円の縄張りで、 各郭は、濠と丸野づら積の石垣で作られており、二ノ丸中央には遠見山古墳を利用した 物見台を持つ城郭でした。 その総社城も寛永10年(1633),2代泰朝の時、加増され甲斐谷村へと移り、 わずか30年ほどで廃城となりました。 →【地図】 案内板によると、本丸は利根川に削られ、二ノ丸,三ノ丸は住宅化して消滅したものの、 濠と櫓台が残ってるとの事。。。 ………………残念でした^^: どうやら水堀遺構じゃないみたいです〜 遠見山古墳を利用して造られたそうです 秋元長朝が、父・景朝の菩提を供養する為に建立 実は、この側室にびっくりするような伝説があります! 何を隠そう、この側室は大坂夏の陣で亡くなった淀君説です^^ このお艶こそが淀君だったいう話が残ってます。どんな話かと言うと……… 「大坂夏の陣で亡くなったと思われてた淀君は城を抜け出し、総社城主,秋元長朝に助けを求め、 籠で木曽路経由で総社に送くられ、大橋の局として不自由なく過ごしてたそうです。 しかし過去の悲哀に耐えきれず、この岩の上から利根川に飛び込んだそうです」 結局、哀しい話です>< この大坂から運ぶのに使った籠が今でも元景寺に残ってるそうです。
全国に、いろんな説が残ってますが淀君の説は初めて知りました。
もしかしたら、秀頼は島原へ、淀君は群馬へ。。そして島原の乱の鎮圧の話を聞き淀君は利根川に飛び込んだって事もありえなくないんですね^^ え? もしかしたら真実?(笑) |
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2011年06月30日
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