三田陣屋 (摂津)(所在地) 兵庫県三田市屋敷町 (形状) 陣屋 (別称) 三田城,車瀬城 (築城者) 九鬼久隆寛永10年(1633),鳥羽城の九鬼守隆の死後に起きた九鬼家の家督争いにより、 幕府に減付され、海のない三田に九鬼久隆が3万6千石で移付されて来ました。 久隆は、一国一城により、新しく城を築くことを許されず、 この地にあった有馬氏の車瀬城跡に陣屋を築き居城としました。 その後、海の戻ることなく13代続き、明治を迎えました。 →【地図】 けっこう大きく、保存状態もいいです♪ 現在は、有馬高校が建っていて、井戸の遺構が残ってるそうです! 工事してる^^: 校長室の下には遺構が保存されてるらしいんですけど、遺構見せてくれ〜って言えないよね(笑) 海賊(水軍)出身の九鬼家は、海がない三田でも水軍技術を忘れない為に、 この大池で調練してたそうです 残念ながら、その水軍技術を活かせる場は、今後訪れる事はありませんでした。 金心寺には、下屋敷の城門が移築されています。 ちと迷った〜 ここには、9代守隆から22代清隆までのお墓が並んでます。 以上が、九鬼家の三田陣屋の訪問記になります。
数年前にNHK「その時歴史が動いた」で九鬼家のその後がエンディングでながれ、 海のない陣屋に移付されても、水軍である事を忘れない為に大池で調練をしてた事を知り、 紀伊の波切九鬼城,鳥羽城を訪問してる自分は、いつか行きたいと思ってた場所でした。 想像以上に遺構があり、楽しめましたけど、何よりここに行けたのが嬉しかったです。 ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
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2011年11月06日
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篠山城 (丹波)(所在地) 兵庫県篠山市北新町 (形状) 平山城 (別称) 桐ヶ城 (築城者) 徳川家康篠山城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長14年(1609)に、 豊臣氏の居城である大阪城の包囲と、豊臣家ゆかりの諸大名を抑える拠点とする為に、 篠山盆地に築いた城です。 築城は西日本の15ヶ国20諸候の大名により天下普請で行われ、縄張りを藤堂高虎, 総奉行を池田輝政らが指揮を執り一年足らずで完成させました。 5万石の城にしては大き過ぎるこの城郭は、丘陵の岩盤が硬く崩す事が出来ず、 丘陵すべてを城郭に取り込んだ為とされており、天下普請とはいえ、あまりの堅固さに 天守を築かなかったとされてます。 築城した篠山城には家康の実子,松平康重が八上城から移り初代城主となり、 松平3家8代−青山氏6代と260年間続き、明治を向かえます。 →【地図】 まず、驚かされるのが広〜〜〜〜い外堀^^ この篠山城の広さが伺えます 総石垣の枡形門!なんてカッコいいんでしょ〜^^/ 内郭は西側が二ノ丸,東側が本丸と分れていて、北西角のここは二ノ丸の石垣になります (図C) ちなみに、築城当初は二ノ丸部分を本丸,本丸部分を天守曲輪と呼ばれてたそうです それほど期待してなかった篠山城でしたが、この高石垣にビックリ! もう虜です^^ 篠山一のショットです♪ この城は、内郭が総石垣の為に平山城って感じはしないですけど、 この門の位置を見ると、やっぱ丘陵を利用しての平山城なんだなぁ〜って思えます。 この大書院は築城と同時に建てられており、二条城に匹敵するくらい大きな建物でした。 右の襖の裏側には控えの間があり「くせもの!であえ〜」の言葉と共に隠れ武者が現われるのかな?(笑) 家康の天下普請でしたが、余りの堅固さに実際には天守は建てられませんでした。 大手、南、東の三ヶ所に馬出が授けられていて、ここは東馬出は石垣で囲われてる貴重な遺構です 三の丸南側の土塁上から、土橋そして、その先にある南馬出を見た写真です 馬出内は、かなり広々してます。 以上が篠山城巡りでした。 近世城郭で、輪郭式の城郭は規模が大きく、壮大さは感じれれますが、 イマイチ、面白さに欠けるんですが、ここは別格! 大書院の素晴らしさもありますが、何よりも内郭を囲む高石垣が素晴らしいです! 特に、大手表門枡形,天守台の石垣は美しく、非常に素晴らしかったです さすが100名城に選ばれる事だけはありますね^^ |
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