マグロユッケ丼・まぐろとパプリカのスパゲッティ (まぐろ三昧那智) こんばんは!
くじら博物館を出て、和田城散策を終えた後は、那智勝浦でランチです
時間も2時を過ぎ、ちょっと遅めのお食事タイムです
さてさて〜 何を食べますか?
そりゃ〜 那智勝浦って言ったら生マグロしかないよね
やって来たのは『 まぐろ三味 那智 』さん
ちょっとオシャレなマグロ料理を出すお店です♪
さてさて、お楽しみですね〜
まずは、食べログのク−ポンで頂けるサ−ビスの一品
三種類から選べましたけど、まぐろ皮の燻製をチョイス〜
コラーゲンたっぷりのまぐろの皮の燻製で香りよく、美味しかったです
けっこう量もあり、まんぞくの一品でした
まぐろユッケ丼
お店のお勧めにもなってるユッケ丼で、甘いタレと生まぐろの弾力が絶妙
おいしぃ〜って言える丼ぶりでした♪ 見た目のGOOD〜
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2012年03月30日
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和田城 (紀伊)(所在地) 和歌山県東牟婁郡太地町太地 (形状) 丘城 (別称) 和田館・東屋敷 (築城者) 和田蔵人鎌倉時代初期,建暦3年(1213年)、相模国の三浦氏の氏族である和田義盛が、 北条氏の陰謀を打倒するための挙兵。そして討死してしまう和田合戦がありました。 一族も次々と討ち死にする中、めざましく奮戦した義盛の子である朝比奈義秀は安房逃れ、 さらに南海へと漂流中に熊野沖で暴風雨にあい、現和歌山県の太地町の夏山に漂着します。 その後、同じ太地町の東上野に移り和田城を築城したと伝えられてます。 この城は和田氏代々が室町時代末期で居住し、のちに麓の屋敷へと移ったと思われます。 →【地図】 城郭大系の「上野高塚と呼ばれる所」「遺構ではないが、鯨の見張所の石垣がある」という事から、 太地湾を見下ろす事の出来る丘上の古式捕鯨高塚連絡所跡がそうではないかと、勝手に推測^^ ここからなら後に鯨見張台を造るだけあって湾が一望でき、城を築くにはいい場所かと思います。 まぁ〜あくまでも場所は推測ですけどね(笑) 和田氏の史跡は残ってるのに、和田城の事は城郭大系にしか手掛かりが無いのが残念。 次は、和田氏の屋敷跡と呼ばれてる所があるので行ってみましょう〜(^^)// 先程の丘上から太地漁港に降だると、和田の石門という岩のトンネルがあります 紀伊風土続風土記には「和田の岩穴 村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。 内に入れば村居に適せり。和田氏住居せし所といふ。」とあり、 この石門の内側に4,5千坪の和田氏の屋敷があったそうです。 順心寺にある和田頼元の墓 ここ太地町では名族和田氏、戦国武将和田氏、和田合戦の和田氏より、 組織的な古式捕鯨を確立した和田氏として名が知れわたってます。 この太地和田氏の御子孫の方の家系図によると、 朝比奈義秀から11代後の和田忠兵衛頼元が、慶長11年(1606年)に 知多の漁師,伝次や堺の浪人,伊右衛門と共に大々的に突捕り法による 日本で初めての捕鯨組織集団「刺手組」を結成したことに、 太地の鯨漁の歴史は始まります。 このお墓は、創始者である和田頼元のもので、漁港に近い順心寺にあります (写真は太地町HPから借用) 紀州藩の保護のもと太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。 しかし、200年後の明治11年(1875年)、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨を追う為、 総勢184名・19隻の総出で出漁しますが、驚き暴れる鯨はなかなか仕留める事が出来ず、 ようやく仕留めた時は沖に流されており、水も力も尽き、荒れ狂う海に次々と沈んでしまいます。 この事故で、生存者はわずか13名,餓死12名,行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。 この事により突如として100余名の働き手を失ったこの小さな漁村の捕鯨は幕を閉じます。 って思う場所で、山下の漁港正面辺りが岩門で、和田屋敷があった場所です。 以上が和田城、和田屋敷の紹介でした^^
今回の和田城の場所には悩まされました〜。城郭大系にもしっかり載ってるのに イマイチ場所が分からず、ここかなぁ〜って所で終えたのがチト悔いが残りますが 旅行中で、そこまで時間がとれないので仕方なかったです。 どちらかというと鯨漁の和田頼元の史跡の方が充実しており、和田屋敷の岩門は 屋敷跡の門として相応しい重々さが感じれました。 くじら博物館にも行ったせいか、和田合戦の武士の和田氏のイメ−ジから、 捕鯨の和田氏のイメ−ジの方が強くなりました(笑) あっ そうそうこの太地和田氏も捕鯨に力を入れる前は武士として堀内新宮城の堀内善氏の 配下として朝鮮出兵や関ヶ原にも参加してます。^^ ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
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