松前大館 (蝦夷)(所在地) 北海道松前郡松前町 (形状) 山城 (別称) 徳山館 (築城者) 安東盛季松前大館は、嘉吉3年(1443)頃、南部氏との戦いに敗れた安東盛季が、海を渡り蝦夷地に 移り築いたも館で、道南12館の一つとなります。 永正11年(1514)、武田信広の子である蠣崎光広は、花沢館から松前の地に移り、 大館を徳山館と改名し入館します。その後、光広はアイヌ軍と戦いつつ支配を固めて行き、 子孫の慶広の時、徳川家康から蝦夷地支配権と松前の名を賜り、ここより海側に福山館築き、 徳山館は廃館となりました。 →【地図】 館は山城で、大館と小館の2つで成り立ってます。 城の規模は大きく、住宅もあるので山城全景を撮ることはできませんでした〜 数年前まで石碑があったらしい麓の神社に行ってみました。 なぜ?石碑は無くなっちゃったのか〜〜涙 このゴロ−ウニンとはロシアの提督で、1811年に千島列島を測量中に南部藩に捉えられ、 高田屋嘉兵衛との捕虜交換により解放されるまでの2年間を、この牢屋で過ごした人物です。 この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の交渉があったといわれています。 これで松前大館の紹介は終わりとなります。
山城に登ることも無かったので大した記事も書けませんでした^^:以上! |
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松前城 (蝦夷)(所在地) 北海道松前郡松前町 (形状) 平山城 (別称) 福山城 (築城者) 松前慶広松前城は、松前家の初代藩主・松前慶広が徳川家康から蝦夷地統治と松前氏の改名を許され、 大館(徳山館)から、この地に松前城の前身である松前館を築城しました。 その後の火災や修築などを経て、17代藩主・松前崇広の時、外国船からの備えとして、 幕府から改修を命ぜられます。この時三万石を賜り、城主格大名になりました。 設計は当時の三大兵学者の一人である高崎藩の市川一学が指揮を執り、 日本最後の和式城郭,松前城を築きます。 しかし函館戦争では、海からの攻撃には防備面を発揮しますが、陸からの防御の低さを突かれ、 土方歳三率いる部隊により一日で落城させられてしまいます。 →【地図】 登城口はいくつかありますが、藩士の登城ル−トである馬坂門から三の丸へ攻め登ります! この登城ル−トは数馬坂とも言われ、初代藩主,慶広の4男,数馬介由広が豊臣秀頼に 内通してると噂になった為、徳川家康に配慮して家臣が討つという悲し話しが残ってます。 三重折になった坂を上がるル−トで、上には天神坂門あります。 さて、三ノ丸に突入です♪ 三の丸、その先には二の丸への搦手二ノ門が見えます この城の最大の特徴である砲台です。 三の丸には7つの台場が設置されていて、天守のある和の形式の城郭で台場を持つ城郭は 他には無かったと思います。 大砲とか復元されたら迫力あるんだけどなぁ〜 ρ(-.-、) ここを潜ると二ノ丸で、その先に天守が見えます! 正面の白壁の切れた場所には二重太鼓櫓がありました。 この二重太鼓櫓からは、海上、海岸線、三の丸を見渡すことが出来き、重要な役目を持ってました。 お〜〜〜感動です♪天守の規模がどうじゃなく、ここに来たぞ〜って思いが^^ 北陸や東北など豪雪地方の建物は、寒さ対策が施されてて面白いんですよね〜 屋根は銅板張りで、扉は重厚感ある両開きで、白木造りとなってます。 門の裏側って魅力的です♪ 窓を小さく、城壁には鉄板を入れ堅固な造りとなってます。 亀甲積が何ともいいです^^ 今はだだっぴろい緑が広がってます^^ 以上が松前城でした。もう少し見るべき所はあったんですが、時間の関係で軽〜く。
なにせ函館から遠いんで^^: |
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