福山城 (備後)(所在地)広島県福山市丸之内1丁目 (形状) 平山城 (別称) 久松城 (築城者) 水野勝成福山城は、安芸,備後国主 福島正則が改易となった後、西国鎮護として 徳川幕府の譜代臣 水野勝成が元和5年(1619年)に、備後10万石の領主として入府し ここ福山の地に城を築いた事に始まります。 その後、5代勝岑の時、幼くして死去したため跡継ぎが無く水野家は断絶してしまいますが 福山城には、松平氏、阿部氏10代(老中四人を輩出)と廃藩置県に至るまで 藩治の中心となり続けました。 【100名城】 →【地図】 普段新幹線移動は、殆ど無いんで、どきまきしながら入場券を買ってホームに向いました(笑) お〜〜〜 すごくカッコイイ(^^)/ こりゃ 入場券を買ってまで見たかいがあります♪ 本丸の右端、月見櫓(手前) 鏡櫓(中) 天守(奥)が一望出来ます (これは近くまで行って撮った写真です) 徳川秀忠が移建させたものです 福山駅を出ると、二の丸の石垣がすぐ見えます。 立派な高石垣が美しいです^^ この筋鉄御門も伏見櫓と同じく、伏見城から移築されたもので、共に現存として 国重要文化財に指定されてます 御湯殿(左上) 月見櫓(右上) 鏡櫓(左下) 伏見櫓(右下) 半地下式の5重6階の天守に、付櫓が付く形になっています この城の特徴の一つであった北側の総鉄張りまでは復元されてませんでした>< ちょうど昔の三の丸・内堀があった辺りですね ここから二の丸西側を廻っていきます 読んで字の如く、太鼓や鐘があって時などを知らせたんでしょう ここから三の丸へと降って行きます こうゆう大きな近世城郭に来ると、どうしても素通りしてしまう土塁ですけど 長くて高い土塁でなかなか見応えがあるんですよね〜 三の丸側に面した部分の石垣で、駅前駐車場内にあります さっきの外堀石垣といい、この櫓の石垣といい、整備された中で良く残ったものです 福山駅の高架下にひっそりと残ってます^^ 当時は、福山城内の岡本家の長屋門だったそうです。 明治時代になり、民間払い下げと同時に、この地にやって来たそうです この福山城は、石高10万石と城の規模からすると小さいですが、
毛利家、浅野家など西側の外様諸国を見張る領地として、徳川譜代の水野勝成を入府 させたり、秀忠の命で伏見城の建物などを移築させるなど力を入れた城だけあって 石垣や建物など見応えがあります そして現存櫓や門が3つも残ってるの魅力ですね そんな福山城を航空写真じゃないけど、普通では見れない位置で見れたのも良かったです |
広島県の城
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鞆城 (備後)(所在地)広島県福山市鞆町後地 (形状) 山城 (別称) ―――― (築城者) 毛利氏鞆城は、福山市鞆町の町並み中央にある独立丘陵を利用した城で、 博物館のある頂上に本丸を置き、二の丸、三の丸と階郭式になっています。 築城は、天正4年(1576)に毛利氏が、将軍足利義昭を鞆に迎えた際に築城しました。 足利義昭は、ここに6年滞在し、鞆幕府とも言われるようになりました。 その後、慶長5年(1600)に、安芸、備後の領主となった福島正則が修築するものの 元和元年(1615)には、一国一城令により廃城となりました。 →【地図】 丘の上の建物がある場所が本丸跡です 一番上の写真で言うと、右側です この石垣は、本丸東南隅の石垣の一部の現存と復元をしたのもです ピンクの○の辺りは現存で、刻印も見られます ここには、歴史民族資料館が建っています かなり広い曲輪です(60×45位)かな〜 ここに説明板がありました ここは、虎口になるのかな!?そこを降りた所です 瀬戸内海が一望出来ます ここに橋が架かっちゃったら、もうこの景色は見れ無いんですね…………。 ここが二の丸になります 本丸同様、広い曲輪になってます(50×40位かな〜) ここに、三の丸の石垣があるんです その他にも、対潮楼の裏側にも、刻印の見られる石垣を発見できました。
初め、こんなにも石垣を期待していなかったんですが さすが近世城郭と思わされずにはいれれない位、石垣を見ることができ、 見進むうちに、どんどん引き込まれちゃいました^^ さすが!!義昭の館を作るだけの町でしたね。 |
大可島城 (備後)(所在地)広島県福山市鞆町鞆 (形状)水軍城 (別称) 要害 (築城者) 岡部出羽守大可島城は、鞆港の北に突出した標高10mの小さな陸繋島に築かれた城で、 元は、孤立した島でした。 この城が築かれたのは、南北朝動乱期で、康永元年(1342)四国伊予を拠点とする 南朝方と備後一帯に勢力を持つ北朝足利方が燧灘で合戦となり 大可島城にこもる南朝方は全滅するという歴史を持ちます。 その後、戦国時代には村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である 鞆の浦一帯の海上権を握っていました。 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、今のように陸続きとなり、 現在ある円福寺が建てられました。 →【地図】 この丘の上にある大きな建物に、「ポニョ」の作者 宮崎駿さんが滞在されたそうです^^ 遺構は、無いそうです>< 弁天島が見えます 桑原氏は、康永元年の戦いで南朝方として討死にした備後の豪族です 今は、陸続きとなっていますが、南北朝時代は島城となってたので この城は、そこそこ堅固だったんでしょう 水軍城として考えても、波もないし、入り組んでる地形から船も隠せたでしょうし、 城の場所としては、最高の立地ですね 現状は、遺構もないし、15分くらいで散策出来てしまう城です ただ境内には、説明板もあるし、お金を入れると音声が流れる箱もあり 城めぐりをするものとしては、うれしい配慮です ただ、小銭が無かったんです><(笑) |
宮尾城(所在地)広島県廿日市市宮島町 (形状)水軍城 (別称) 宮ノ尾城 (築城者) 毛利元就観光地、厳島の入口にある宮尾城は、弘治元年(1555) 毛利元就が、 陶晴賢2万の大軍を狭い厳島に誘き寄せる為に築いた城です 現在 西側は、埋めててられていますが、当時は城域まで海が迫っていたので 水軍城の性格まで持ち合わせた城でした。 この為、陶軍もなかなか落とす事が出来ず、 同年10月1日、毛利軍の奇襲により、混乱に陥った陶軍は壊滅し 陶晴賢も島の西部へ敗走するものの、なすすべも無く、自刃しました。 【→地図】 今、建物が建ってる辺りまで、海だったそうです。 その後ろが宮尾城になります。 ここは、狭いですが曲輪になっていて、周りよりも高く、主郭跡かも知れません。 正面神社の上後が、休憩所です 狭いですが、なかなか深いです 城郭大系でも曲輪の説明も無いので、詳しく解りませんが 主郭 または、それに順ずる曲輪だったのかも知れませんね。。 これで、この城の散策は終わりです。
時間にしたら、15分位で見終わってしまう小規模な城郭でしたけど、 毛利にとって、ここを守るか落とされるかで、未来が決まってしまう事もあり 士気の点で、陶軍とはぜんぜん違ってた為に、簡単に落城させる事が出来なかったのでしょう その結果が、陶軍2万の猛攻に耐え、そして毛利軍の厳島の戦いでの勝利に繋がったんですね そんな歴史のあるこの舞台に来れて大満足でした^^ |
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