坂本龍馬【坂本龍馬】1836〜1867 【銅像所在地】 高知県・桂浜 坂本龍馬は、天保6年(1835),郷士坂本八平の次男と生まれます。 泣き虫だった龍馬は、14歳の時から小栗流・日根野道場に通い、腕を上げていきます。 その龍馬が19歳の時、に江戸の千葉道場に修業に出ます。 そこで剣術の他にも佐久間象山との出会い、そしてぺリー率いる黒船の影響により 考え方も変えて行きます。 二度の江戸修行により北辰一刀流の免許皆伝を得た龍馬は土佐に戻り、武市の誘いにより 土佐勤王党に参加するものの、考え方の違いから脱藩して、再び江戸に出ます。 そこで勝海舟との出会い、そして神戸海運塾。それが閉塾すると亀山社中の設立。 それにより薩長同盟の成立にも尽力します。 その龍馬が大政奉還への道を開くと慶応3年(1867)11月15日,京都の近江屋にて 同郷の中岡慎太郎と共に暗殺されます。 33才 ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
戦国武将銅像
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長宗我部元親【長宗我部元親】1539〜1599 【銅像所在地】 高知県・若宮八幡宮前 長宗我部元親は、1539年,長宗我部国親の長男として岡豊城で生まれます 初陣は、永禄3年(1560)22才と遅く、宿敵本山氏との戦いで長浜城を落とし勝利。 以後15年間本山氏,安芸氏,一条氏を倒し土佐統一を果します。 そこで元親の野望は終わることなく、阿波、伊予、讃岐と領地を広げ、 天正13年(1585)に四国統一を果します しかし同年夏、羽柴秀長を総大将とする10万の豊臣軍の前に最善を尽くすものの、 圧倒的な軍勢の前に軍門に下り、土佐一国に減封されます。 それからは秀吉軍下として九州征伐にも参加し、天正14年(1586)豊後戸次川の戦いで、 島津軍に敗北し、嫡男信親を亡くします。 帰国後、次男、3男を差し置き4男盛親に家督を譲る事に決めた事により、 相続争いにも繋がりました。後にその事が因果して改易にも繋がりますが、 それを見る前の慶長4年(1599)に、伏見で亡くなります 61才。 ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
吉良上野介義央【吉良義央】1641〜1703,1,31(旧暦12月14日) 【銅像所在地】 愛知県吉良町・岡山陣屋 吉良上野介義央は、高家旗本吉良義冬の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生れました。 その後、石高は低いものの家柄の良さから上杉家の娘・富子を妻とし、後に息子までをも、 跡取りを失った上杉家の当主に置く事に成功し、大大名上杉家と強い結びつきを持ちます。 このように政略結婚、忠臣蔵から良いイメ−ジを持てないかもしれませんが、 その人間性は、地元吉良の民衆からは慕われるお殿様のようでした。 上の写真の馬。なんか殿さまが乗るにはカッコ良くないですよね^^ 義央は領内を巡視する際、赤馬(農耕馬)に乗って民衆と同じ視線で見回ったそうです 民衆に気軽に声を掛けたりしたんではないでしょうか。 また、水害を防ぐため堤防を作った際には、民衆から称賛の意味で、この堤防を黄金堤と 呼ぶようになったそうです このように江戸期の歌舞伎や浄瑠璃の「忠臣蔵」によって一方的に悪者にされた義央にも、 こんな真実があったんです。 ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリックお願いします) |
吉田 松陰【吉田松陰 】 1830〜1859 【銅像所在地】 伊豆下田・弁天島 吉田松陰は、萩(長州)で杉百合之助の次男として生まれ、にちに吉田家の養子となります。 その後、江戸に出た松陰は師事を受けてる佐久間象山と共に黒船を偵察し、心を打たれ ぺリ−が下田に来航した際に、同郷の金子重輔と共に停泊中のポーハタンへ赴き密航を 企てるが失敗。自ら自首した松陰は下田で拘禁された後、萩の野山獄に幽閉される。 翌年、出獄を許され、伯父の松下村塾を引き継ぎ、幕末の志士・久坂玄瑞や高杉晋作、 伊藤博文、山縣有朋などを教育して行きます。 その後、日米修好通商条約を締結に激怒し老中暗殺を企てるが頓挫し、再び幽閉され 江戸の伝馬町牢屋敷にて処刑される。(井伊直弼の安政の大獄) ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリックお願いします) |









