新宮十郎行家屋敷 (紀伊)(所在地) 和歌山県新宮市熊野地 (形状) 屋敷 (別称) 行家屋敷 (築城者) 新宮十郎行家新宮十郎行家の別名を源義盛といい、源為義の十男(長男は義朝)で、新宮の神官,鈴木重忠の娘 との間に生まれたといわれています。 平治元年(1159)の保元・平治の乱では戦いに敗れ兄弟を早く失ったが、 ただ1人生き残り、熊野に逃げ延びる事が出来ました。 ここで行家は新宮に屋敷を築き平家追討の令旨を諸国の源氏に伝え、峰起を促しました。 平家滅亡後は頼朝と対立する義経と行動を共にしていたが、文治2年(1186)5月、 和泉国(今の大阪府)で捕えられ最後をとげました。 (現地説明文引用) →【地図】 言葉では場所は説明しにくいですが、細い川沿近くの駐車場の一角に説明板があります この人物は源頼朝、義経の伯父で大河「義経」では大杉漣さんが演じられたと言えば覚えてるかな^^ 大河の何が嬉しいかって言うと、史跡が整備される事です♪ 何やら絵のタッチがマンガチックです^^ 以上が新宮十郎行家屋敷跡です。
遺構などは全くなかったですが、立派な説明板があったのは嬉しいですね♪ 何も無いと、ここがそうなのかイマイチ分りませんからね〜 ![]() ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック) |
和歌山の城
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和田城 (紀伊)(所在地) 和歌山県東牟婁郡太地町太地 (形状) 丘城 (別称) 和田館・東屋敷 (築城者) 和田蔵人鎌倉時代初期,建暦3年(1213年)、相模国の三浦氏の氏族である和田義盛が、 北条氏の陰謀を打倒するための挙兵。そして討死してしまう和田合戦がありました。 一族も次々と討ち死にする中、めざましく奮戦した義盛の子である朝比奈義秀は安房逃れ、 さらに南海へと漂流中に熊野沖で暴風雨にあい、現和歌山県の太地町の夏山に漂着します。 その後、同じ太地町の東上野に移り和田城を築城したと伝えられてます。 この城は和田氏代々が室町時代末期で居住し、のちに麓の屋敷へと移ったと思われます。 →【地図】 城郭大系の「上野高塚と呼ばれる所」「遺構ではないが、鯨の見張所の石垣がある」という事から、 太地湾を見下ろす事の出来る丘上の古式捕鯨高塚連絡所跡がそうではないかと、勝手に推測^^ ここからなら後に鯨見張台を造るだけあって湾が一望でき、城を築くにはいい場所かと思います。 まぁ〜あくまでも場所は推測ですけどね(笑) 和田氏の史跡は残ってるのに、和田城の事は城郭大系にしか手掛かりが無いのが残念。 次は、和田氏の屋敷跡と呼ばれてる所があるので行ってみましょう〜(^^)// 先程の丘上から太地漁港に降だると、和田の石門という岩のトンネルがあります 紀伊風土続風土記には「和田の岩穴 村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。 内に入れば村居に適せり。和田氏住居せし所といふ。」とあり、 この石門の内側に4,5千坪の和田氏の屋敷があったそうです。 順心寺にある和田頼元の墓 ここ太地町では名族和田氏、戦国武将和田氏、和田合戦の和田氏より、 組織的な古式捕鯨を確立した和田氏として名が知れわたってます。 この太地和田氏の御子孫の方の家系図によると、 朝比奈義秀から11代後の和田忠兵衛頼元が、慶長11年(1606年)に 知多の漁師,伝次や堺の浪人,伊右衛門と共に大々的に突捕り法による 日本で初めての捕鯨組織集団「刺手組」を結成したことに、 太地の鯨漁の歴史は始まります。 このお墓は、創始者である和田頼元のもので、漁港に近い順心寺にあります (写真は太地町HPから借用) 紀州藩の保護のもと太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。 しかし、200年後の明治11年(1875年)、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨を追う為、 総勢184名・19隻の総出で出漁しますが、驚き暴れる鯨はなかなか仕留める事が出来ず、 ようやく仕留めた時は沖に流されており、水も力も尽き、荒れ狂う海に次々と沈んでしまいます。 この事故で、生存者はわずか13名,餓死12名,行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。 この事により突如として100余名の働き手を失ったこの小さな漁村の捕鯨は幕を閉じます。 って思う場所で、山下の漁港正面辺りが岩門で、和田屋敷があった場所です。 以上が和田城、和田屋敷の紹介でした^^
今回の和田城の場所には悩まされました〜。城郭大系にもしっかり載ってるのに イマイチ場所が分からず、ここかなぁ〜って所で終えたのがチト悔いが残りますが 旅行中で、そこまで時間がとれないので仕方なかったです。 どちらかというと鯨漁の和田頼元の史跡の方が充実しており、和田屋敷の岩門は 屋敷跡の門として相応しい重々さが感じれました。 くじら博物館にも行ったせいか、和田合戦の武士の和田氏のイメ−ジから、 捕鯨の和田氏のイメ−ジの方が強くなりました(笑) あっ そうそうこの太地和田氏も捕鯨に力を入れる前は武士として堀内新宮城の堀内善氏の 配下として朝鮮出兵や関ヶ原にも参加してます。^^ ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
新宮城 (紀伊)(所在地) 和歌山県新宮市新宮 (形状) 平山城 (別称) 丹鶴城 (築城者) 浅野忠吉新宮城は、関ヶ原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣,浅野忠吉が 新宮領を与えられ、慶長6年(1601)に築城を開始した城です。 一旦は、一国一城令で完成前に廃城となりますが、再び再建を許され築城が始まります しかし、工事途中で安芸三原に転封となってしまいます。 その後、元和元年(1615)、浅野氏にかわり徳川家康の十男・頼宣が紀州に入国し、 付家老の水野重仲が新宮領を治める事になりました。重仲は途中となっていた築城を 再び開始して寛永10年(1633)に完成をみます 以後、水野家が代々新宮領を治め続け明治を向かえます。 →【地図】 やっぱ自分の中で、和歌山BEST3に入るだけの城です!石垣が素晴らしいです^^ この石垣上には三層五階の天守が建っていたそうです^^ 正面が天守跡となります。そっちへ行ってみます〜 城下町、そして本丸から西に続く鐘ノ丸を望むことができます^^ この城で一番のビュ−ポイントです(^^)// 残念ながら柵がしてあり、先に進む事は出来ません〜 鐘ノ丸は総石垣上にありますが、芝生が綺麗に張られた城内からはそれが感じられませんね 二つの曲輪には段差があり、虎口両脇は石垣で固められてます 左奥に見えるのが下へと続く松ノ丸門。 6年前に来た時よりは工事が進んでる気はするけど、まだ降りる事はできませんでした。 ここから山下の二ノ丸へ降りて行く事が出来ます 以上が新宮城の訪問記でした。 今回は長々見ていただきありがとうごさいます!写真20枚 新宮城は和歌山城に次いでの城だと思っているのでなかなか写真の選別が出来なくて…^^: 新宮城は天守、本丸虎口の石垣が特に素晴らしいです さすが浅野氏、そして水野氏の築城した城だけの事はありますね また水ノ手曲輪が完成したら訪問してみたいです。 |
雑賀崎台場 (紀伊)(所在地) 和歌山県和歌山市雑賀 (形状) 台場 (別称) カゴバ台場 (築城者) 紀州藩雑賀崎台場は、幕末期に紀州藩により異国船に対する防衛として築造されました。 数は、この台場を含め33ヶ所。7人の家臣に命じて作らせました。 しかし、その殆どの台場は未完成の為、破壊されてしまったので、 遺構が残る台場として貴重な史跡となっています。 →【地図】 トンガって、誰?(笑) これって、遺構かな? この石垣は、結晶片岩を算木積(石垣の出角を積む方法)で積まれていて、 この積み方は、和歌山城にも使われてます ついに台場の本郭に出ます^^ ここに何門の砲台が置かれてたんだろう? さすが、台場が置かれる所だけあって見晴らしが良く抜群の景色です♪ 台場巡りで、一番嬉しい瞬間ですね^^ 以上が、雑賀崎台場の全貌でした^^ |

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中野城 (紀伊)(所在地) 和歌山県和歌山市中野 (形状) 平城 (別称) ―――― (築城者) 貴志教信中野城は、築城年代は不明ですが、城主は貴志教信とだけ伝わってます。 戦国時代は、紀ノ川平野に勢力を誇った雑賀衆の前線基地として織田信長を迎え撃つ為、 整備され応戦するものの、逆に信長軍に奪われ雑賀攻めの前線基地となってしまいました。 この雑賀合戦の時の銃弾が発掘調査により出土されており、激戦の様を物語っています →【地図】 ちゃんと嬉しい事に、説明板と石碑もあります^^ この石垣は櫓や門の部分なのかな? これで中野城の紹介は終わりです^^
石垣があるとは言っても住宅・田んぼに囲まれた城なのに、ちゃんと説明板などがあるのは さすが徳川御三家がある県! 歴史には力を入れてるんですね♪ 雑賀衆の城では、あまり他で石垣を見なかったんで、そういう意味でも訪問出来て良かったです ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |

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