館城 (蝦夷)(所在地) 北海道桧山郡厚沢部町城丘 (形状) 平山城 (別称) 館村御立退所 (築城者) 松前徳広明治元年(1868)10月25日に、拓地勧農、そして海に近い松前城の防備の不備から 松前藩主18世徳広を擁した勤皇派により、松前から離れた海のない厚沢部町の高台に わずか2ヶ月の短期間で日本最後の城「館城」を完成させました。 この館城は天守を構えた城ではなく、陣屋の様相を呈したもので、完成後わずか20日で 旧幕府軍の攻撃を受け、1日と持ち堪える事が出来ず落城してしまいます。 藩主,徳広は落城の3日前に脱出し、津軽藩の庇護を受け青森県弘前に入るが病死。(享年25歳) →【地図】 現在、城跡は道路に分断されており、道路脇に車を止めると、そこが本丸となっています。 そんな状況だから遺構が期待できないかと思いきや、さすが国指定の史跡だけあって、 土塁や井戸、堀などを見る事ができ、現在も発掘作業が行われていました。 三上超順は、松前兵全滅の危機に際し正義隊隊長を務めていた者で、右手に大刀、左手に盾代わり のまな板を携え、味方を逃がすため単身旧幕府軍の前に立ち塞がり斬殺されてしまいます。 で、その三上超順力が何を試したのかは分りませんが、石碑と共に石が残ってます。 何処までが曲輪だかよく分かりませんが、至る所に目印がされていて、説明板もありました。 それによると、ここには米倉があったと考えられていて、灰墨化とした米が出土されています。 左奥から手前に浅いが幅のある堀らしい跡見る事が出来ました。 この城には、天守は作られませんでしたからね〜 百間ないのに百間堀。。。日本で一番小さい百間掘りでしょう(笑) 比較的、高さがある土塁が長く続いて残ってます。 以上が館城の紹介でした。
平成17年から続いてる発掘調査はまだ続けられていて、この日も地元の方々であろう 20人くらいで発掘されてました。 案の定、いつものように何処から来たのかと聞かれました(笑) で、いつものように東京と言うと「東京からだってさ〜」って皆でビックリされてました。 珍しいんでしょうね〜ここまで来る東京の人は(爆) |
北海道の城
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志苔館 (蝦夷)(所在地) 北海道函館市志海苔町 (形状) 平山城 (別称) 志濃里館 (築城者) 小林重弘志苔館は、14世紀初頭に上野国から渡島して来た小林重弘によって築城されました。 松前藩の史書「新羅之記録」には室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、 この志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されています。 康正2年(1456),アイヌの少年が鍛冶屋である和人にマキリと呼ばれる山刀をめぐり、 口論の末、殺されてします。これによりアイヌの首長コシャマインが立ち上がり、12の和人館のうち 10館が落城。ここ志苔館も落城し、城主小林彌太郎良定が討死してしまいます。 この戦いは若狭国出で、安東氏の客人となっていた武田信広により、 コシャマインは討たれたことにより平定されます。 その後、後を継いだ小林三代良治は松前に移り、蠣崎氏に仕える事により廃館となります。 →【地図】 説明板と立派な石碑が迎えてくれます (^^)/ 綺麗に整備されてるから、芸術の域だね♪ 四角形に近い郭内は平坦で、周囲には2〜3メ−トルの土塁が巡らせてあります。 土塁越しに正面が少し青く見えるかな?そこは海で、右側に見える山は函館山です。 郭外である城壁下の周りは空堀となってる為、土塁上からはかなりの深さに見えます。 ここの空堀が一番幅広く見えます。堀下に行ってみま〜す(^^)/ 以上が志苔館の紹介でした。
もう何度も言ってるけど、北海道の史跡は凄過ぎです〜^^ ここの整備も行き届いており、見所である虎口前の二重掘りは芸術の域! あと木が生えてないのもいいですね^^ さて、温泉、お城を堪能した後は、夕食です〜 函館って言ったらイカですね♪お楽しみに^^ |
南部藩砂原陣屋 (蝦夷)(所在地) 北海道茅部郡森町砂原3丁目 (形状) 陣屋 (別称) ――― (築城者) 南部美濃守徳川幕府は、安政2年(1855)、蝦夷地直轄にともない、仙台,秋田,南部,津軽,松前の5藩に 蝦夷地警衛の分担を命じました。 その中の南部藩は、恵山岬から東蝦夷地幌別まで一帯の海岸を持場とし、 箱館谷地頭(函館市内)の北方に元陣屋を置き、ここを分屯所として砂原陣屋を築きました。 規模は東西37間(66.6メートル)、南北33間(59.4メートル)の方形で、 周囲を高さ3メートルの土塁で囲んでいました。 ここには明治元年の引き揚げまで藩士約30〜50名ほどが駐屯してたそうです。 →【地図】 国指定の史跡だけあって、石碑も立派です^^ さて、南側の虎口から侵入です♪ この写真を撮った場所は南東隅の土塁上からで、北側の虎口まで本郭内を見渡すことが出来ます。 南北間の両虎口は生活道で繋がってます。 土塁は今でも四方が完全な状態で現存しています。けっこう高いですね〜 本来は、駒ケ岳の土砂の流出で埋まってしまったんですが、土塁外側には深さ2メ−トルの 空堀があったそうですから、なかなかの堅固さを誇っていたんでしょうね。 あっ、でも警護するのは対外国ですけどね。。 ちょうど土塁外側だから、空堀の辺りですね。復元してくれるといいんですけどね〜 その時は、北海道のブロ友さんに写真撮りに行ってもらおっと♪(笑) 以上が南部藩の砂原陣屋でした。やっぱ北海道の城郭の現存具合は凄いぜ!
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彦澗台場 (蝦夷)(所在地) 北海道茅部郡森町砂原5丁目 (形状) 台場 (別称) ハマナス台場 (築城者) 旧幕府軍この地は噴火湾の入江に位置し、昔から海上警備の拠点となっていました。 そこへ箱館戦争時に、旧幕府軍副総裁,榎本武揚が対岸室蘭に向う要地と見て、 隊員30名を駐留させ、村民多数の使役によって約1ヵ月掛かり4砲台を持つ台場を築きました。 →【地図】 城好きの自分でも、ついつい雄大な駒ケ岳に目が行っちゃいます(^^)/ 手前の石垣は遺構ではありません。 残念ながら、昔は方形の土塁が残っていたそうですが削平され遺構は全くありません〜 展望台があるので登ってみます==333 ここからだと新政府軍の船が近づいても、直ぐに見つける事が出来そうですね^^ |
戸切地陣屋 (蝦夷)(所在地) 北海道北斗市野崎 (形状) 陣屋 (別称) 松前・清川陣屋 (築城者) 松前伊豆守崇広松前藩戸切地陣屋は、安政2年(1855)に函館開港による外国船警備の為に、 幕府に命じられ松前藩が築いたものです。 この陣屋は松前藩の西洋式築城法により構造は四稜郭で、亀が首を出したような 象棋頭閉堡形式の砲台6門をもつ特徴的な形をしてます。 郭内には17棟の建物があり、約120人が交代制で守備をしていましたが、 完成から13年後の明治元年(1868)、函館戦争がはじまると旧幕府軍に陣屋が使われないように 火を放ち、函館へと引き上げ、陣屋としての役目を終えます。 →【地図】 ここの城郭は、五稜郭、四稜郭と比べると同じ西洋式の稜堡城郭でも無名ですが、 規模、遺構共に素晴しかったです^^ まず感動するのは、模擬門なんかより左右の空堀も大きさ! 幅広く、しかも深い!見た感じでは全てが現存で残ってます この場所は鳥瞰図の南西にある亀の頭のような場所です。 手前の囲いは砲台入跡と呼ばれてる場所で、大砲が6挺保管されてました。 この大砲を実戦になると、その先に見える砲門に設置します。 鋭角的な先端、そして2段の土塁、堀の深さ、左右6門ある砲門が素晴らしいです! ただただ、かっこいいな〜って見入っちゃいます (^^)////// 堀が鋭角的に曲がりくねってる所がいいね〜 以上が松前藩の戸切地陣屋でした。 ねっ! 素晴しかったでしょ^^ おしょう100名城に堂々のランクインです 陣屋と位置するもので、これほどのものは今までに見た事がなかったです! 特に堡象棋頭閉堡形式は見ものですよ〜 自分の拙い写真で、どこまで伝えられたか疑問ですが、稜堡式としては五稜郭と並びますね。 北海道の史跡は、早くから保存されたからか、どこも整備が行き届き素晴しいです♪ さて飽き飽きした皆さま、お待たせしました!次回は観光!グルメ編です(笑) |




