竹田城 (但馬)(所在地) 兵庫県朝来市和田山町竹田 (形状) 山城 (別称) 虎臥城 (築城者) 太田垣光景竹田城跡は、嘉吉3年(1443)但馬守護,山名宗全の家臣,太田垣光景が築城した事に始まります。 その後太田垣氏は毛利方に属した為、天正5年(1577),織田信長の命により、 羽柴秀吉軍に攻められ落城。その後太田垣氏と攻防が続きますが、天正13年(1588)に 赤松広秀が城主となり落ち着きます。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属した為に 赤松広秀は自刃。竹田城は廃城となりました。 →【地図】 時期は10月下旬の早朝8時。あっ 去年のね(笑) いつでも見れる景色ではなく、季節、気温、天候の条件があった時にのみ見れます。 旅行の予定で見れるのはこの日だけ。しかも遅めの8時からの散策だったので、 期待しないで行ったんですけど、見事な雲海が見れました。これぞ天空の城(^^)/ 天守から南側を望んだ景色です。言葉にならない感動〜♪ この日の雲海は濃く、360度雲の切れ間がないです。まるで海に浮かぶ島^^ 左の階段を登った所が本丸で、その本丸の北東隅に天守台はあります。 雲海も綺麗でしたが、青い空と石垣も綺麗なんですよね〜 いつまでも続く雲海に、人は居なくなりせん。 2〜3人に処理で消えて頂きました(笑) 石垣も素晴しいです! その両側に二ノ丸があり、ここは南二ノ丸です。そこから見た本丸石垣と天守台です ちなみに2枚目の写真が南側になります。その先に進んでみます 天守台、本丸、二ノ丸の石垣の重なりがカッコいいです(^^)/ ここからの天守のアングルも好きです〜 以上が竹田城でした。HPなどでは、8時くらいまでが雲海の見所って書いてありましたが 結局、9時30分過ぎまで雲海は広がってました^^ |
兵庫県の城
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落葉山城 (摂津)(所在地) 兵庫県神戸市北区有馬町 (形状) 山城 (別称) 有馬城 (築城者) ――――落葉山城の創建は、南北朝時代であろうと考えられてますが、 築城者と共に不明な部分が多いです。 古い文献には、南朝方の湯山左衛門三郎が居城としていたと残ってます。 戦国時代になると、細川氏の重臣であった三好政長が落葉山城を居城としてましたが 1539年,三木城の別所家直に攻められ、三好政長は河内国へと敗走しました。 その後、三田城の有馬村秀の支配下となりましたが、織田軍に攻められ落城。 そして、廃城となりました。 →【地図】 山頂に見える妙見寺が建ってる場所が本丸になります さて、登ってみましょ==333 この辺りが三ノ丸かな? 細長い曲輪で、更にその先へと続いてます 道の左右に馬がいます! この馬をよ〜〜く見ると。。。 この落葉山城、唯一の城であることを示すものです ここは、銀杏が沢山落ちてるので、銀杏曲輪としときましょ^^←適当〜 さて、正面の階段を登って本丸へ! ここまで、連郭式に細長い曲輪が続いてましたけど、本丸はそれよりは幅広くなってます。 さらに、先に進んで見ましたが曲輪や遺構は確認出来なかったので、ここで終了^^ 以上が、有馬温泉街にある落葉山城の訪問記になります。 下から見上げると、けっこう高そうな城山に見えますけど、登ってみると 20分位で妙見寺(本丸)に着けるので、散歩がてらに登ってみるのもよさそうですよ〜 ここの城主は、いつも温泉が入れたのかな〜って事ばかし考えちゃいます(笑) ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
三田陣屋 (摂津)(所在地) 兵庫県三田市屋敷町 (形状) 陣屋 (別称) 三田城,車瀬城 (築城者) 九鬼久隆寛永10年(1633),鳥羽城の九鬼守隆の死後に起きた九鬼家の家督争いにより、 幕府に減付され、海のない三田に九鬼久隆が3万6千石で移付されて来ました。 久隆は、一国一城により、新しく城を築くことを許されず、 この地にあった有馬氏の車瀬城跡に陣屋を築き居城としました。 その後、海の戻ることなく13代続き、明治を迎えました。 →【地図】 けっこう大きく、保存状態もいいです♪ 現在は、有馬高校が建っていて、井戸の遺構が残ってるそうです! 工事してる^^: 校長室の下には遺構が保存されてるらしいんですけど、遺構見せてくれ〜って言えないよね(笑) 海賊(水軍)出身の九鬼家は、海がない三田でも水軍技術を忘れない為に、 この大池で調練してたそうです 残念ながら、その水軍技術を活かせる場は、今後訪れる事はありませんでした。 金心寺には、下屋敷の城門が移築されています。 ちと迷った〜 ここには、9代守隆から22代清隆までのお墓が並んでます。 以上が、九鬼家の三田陣屋の訪問記になります。
数年前にNHK「その時歴史が動いた」で九鬼家のその後がエンディングでながれ、 海のない陣屋に移付されても、水軍である事を忘れない為に大池で調練をしてた事を知り、 紀伊の波切九鬼城,鳥羽城を訪問してる自分は、いつか行きたいと思ってた場所でした。 想像以上に遺構があり、楽しめましたけど、何よりここに行けたのが嬉しかったです。 ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
篠山城 (丹波)(所在地) 兵庫県篠山市北新町 (形状) 平山城 (別称) 桐ヶ城 (築城者) 徳川家康篠山城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長14年(1609)に、 豊臣氏の居城である大阪城の包囲と、豊臣家ゆかりの諸大名を抑える拠点とする為に、 篠山盆地に築いた城です。 築城は西日本の15ヶ国20諸候の大名により天下普請で行われ、縄張りを藤堂高虎, 総奉行を池田輝政らが指揮を執り一年足らずで完成させました。 5万石の城にしては大き過ぎるこの城郭は、丘陵の岩盤が硬く崩す事が出来ず、 丘陵すべてを城郭に取り込んだ為とされており、天下普請とはいえ、あまりの堅固さに 天守を築かなかったとされてます。 築城した篠山城には家康の実子,松平康重が八上城から移り初代城主となり、 松平3家8代−青山氏6代と260年間続き、明治を向かえます。 →【地図】 まず、驚かされるのが広〜〜〜〜い外堀^^ この篠山城の広さが伺えます 総石垣の枡形門!なんてカッコいいんでしょ〜^^/ 内郭は西側が二ノ丸,東側が本丸と分れていて、北西角のここは二ノ丸の石垣になります (図C) ちなみに、築城当初は二ノ丸部分を本丸,本丸部分を天守曲輪と呼ばれてたそうです それほど期待してなかった篠山城でしたが、この高石垣にビックリ! もう虜です^^ 篠山一のショットです♪ この城は、内郭が総石垣の為に平山城って感じはしないですけど、 この門の位置を見ると、やっぱ丘陵を利用しての平山城なんだなぁ〜って思えます。 この大書院は築城と同時に建てられており、二条城に匹敵するくらい大きな建物でした。 右の襖の裏側には控えの間があり「くせもの!であえ〜」の言葉と共に隠れ武者が現われるのかな?(笑) 家康の天下普請でしたが、余りの堅固さに実際には天守は建てられませんでした。 大手、南、東の三ヶ所に馬出が授けられていて、ここは東馬出は石垣で囲われてる貴重な遺構です 三の丸南側の土塁上から、土橋そして、その先にある南馬出を見た写真です 馬出内は、かなり広々してます。 以上が篠山城巡りでした。 近世城郭で、輪郭式の城郭は規模が大きく、壮大さは感じれれますが、 イマイチ、面白さに欠けるんですが、ここは別格! 大書院の素晴らしさもありますが、何よりも内郭を囲む高石垣が素晴らしいです! 特に、大手表門枡形,天守台の石垣は美しく、非常に素晴らしかったです さすが100名城に選ばれる事だけはありますね^^ |
八上城 (丹波)(所在地) 兵庫県篠山市八上内 (形状) 山城 (別称) ――― (築城者) 波多野元清八上城は、応仁の乱にて初代波多野清秀の戦功により多紀群(篠山市)を与えられた 波多野氏5代に渡って治められた居城です。 築城は永正5年(1508)に、清秀の子,稙道によって行われました。 その後、波多野氏累代は、管領細川高国を放逐。守護代内藤氏を攻略し、勢力を強め、 三好長慶や松永久秀と戦い続けて行きます。 しかし織田信長が上洛すると、それに従わない5代秀治は明智光秀の攻勢を受け、 一年の籠城戦の末に明智仲介の和議により秀治,秀尚兄弟は信長へ投降するものの、 信長に謀殺され、八上城は落城してしまいます。 この時、和議の証として人質に出していた明智の母(乳母)は波多野氏側の磔にされ、 殺害されてしまいました。この事により、一層明智の信長への忠誠心は下がったと思われます 以後、前田氏など豊臣側の城として統治されますが、関ヶ原の戦いが終わり徳川側が治めると、 名城,篠山城の築城により廃城。100年の歴史を終えます。 →【地図】 いざ! 攻城です (熊に怯えながら^^:) あるうひ〜 森の中〜 クマさんに〜 出会ったぁ♪ 明智光秀により八上城が落城すると、政務は山上から麓のここへと移りました。 熊に怯えながら駆け足で登った為、心臓ドキドキ。汗ダクダク。^^: でも、景色が良く、風が気持ち良かったです♪ ここからが城の中心部となり、石垣、土塁など防御性がある曲輪になってきます。 右衛門丸と二ノ丸の間にある曲輪で、細長い作りとなってます 展望も良かったです。 前方の階段を登り二ノ丸へ==333 本丸の下に位置する二ノ丸は、発掘などにより政務を行う最も重要な曲輪と思われてます。 城内一の広さと言われるだけあって、けっこう広めです! 結局、石垣を見る事が出来たのは、右衛門丸虎口部分と本丸裏側(岡田丸)だけでした^^ 本丸には、波多野氏の顕彰碑が建ってます 説明文には軍兵の集まる場所って書いてあるけど、狭すぎてここでは。。。 現在、篠山城の外堀の大手付近に城門が移築されてます 以上が、自分が見て来た八上城です 春日神社・主膳屋敷辺りは、一面草木で暗く、熊出没の張り紙に登ろうか迷いましたが やはり登って良かったです。 遺構もさることながら、ここは大好きな明智さんの歴史では欠かせない城ですからね。 まぁ 母(乳母)の磔という良い意味での史跡ではないですけど。。 山頂まで階段で整備されてて、多少体力は使うけど登り易い城山でした。是非^^ |








