渋川城 (上野)(所在地) 群馬県渋川市渋川 (形状) 平城 (別称) 寄居城 (築城者) 渋川地衆渋川城は、元亀3年(1572),真田幸隆らの武田勢が白井を攻略した際構築し、 長尾憲景が八幡から出撃し武田勢を破ったと伝えられています。 城域は、正連寺とその西に隣接する地が本郭で、堀川とその支流に挟まれていて、 本郭の西に掘切があり、鍵形の高土居と、堀切内の井戸が残っています。 第2郭は4m低く、本郭の北・東を包んでいますが、南側にも外郭があったと推定されています。 →【地図】 手前の橋下には、城の南側を守る水堀の役目を果した川が流れてます 竹の茂ってる辺りが説明文に書かれてた鍵形の高土居かと思います (図C) 今回、工事の人に紛れて写真を撮りましたが、家の建築が進んでて、ここでの撮影も難しいかも。 正面のフェンス上に土塁が少し見えます^^ 以上が渋川城でした。 歩いても、そんなに時間が掛からないので、一周してみると城域がよく分かって良いです |
群馬県の城
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総社城 (上野)(所在地) 群馬県前橋市惣社町総社 (形状) 平城 (別称) ――― (築城者) 秋元長朝総社城は、関東上杉憲盛氏,北条氏と仕え、秀吉の関東征伐では深谷城主として敗れて、 浪人となっていたところを井伊直政の推挙により徳川家に仕えた秋元長朝が、 慶長6年(1601)に、一万石の大名として蒼海城を廃し、父影朝の眠る地である利根川崖端と 越後道街村との間に築城した事に始まります。 築城に6年を掛けた城の規模は総郭南北780m、東西750mの同心円の縄張りで、 各郭は、濠と丸野づら積の石垣で作られており、二ノ丸中央には遠見山古墳を利用した 物見台を持つ城郭でした。 その総社城も寛永10年(1633),2代泰朝の時、加増され甲斐谷村へと移り、 わずか30年ほどで廃城となりました。 →【地図】 案内板によると、本丸は利根川に削られ、二ノ丸,三ノ丸は住宅化して消滅したものの、 濠と櫓台が残ってるとの事。。。 ………………残念でした^^: どうやら水堀遺構じゃないみたいです〜 遠見山古墳を利用して造られたそうです 秋元長朝が、父・景朝の菩提を供養する為に建立 実は、この側室にびっくりするような伝説があります! 何を隠そう、この側室は大坂夏の陣で亡くなった淀君説です^^ このお艶こそが淀君だったいう話が残ってます。どんな話かと言うと……… 「大坂夏の陣で亡くなったと思われてた淀君は城を抜け出し、総社城主,秋元長朝に助けを求め、 籠で木曽路経由で総社に送くられ、大橋の局として不自由なく過ごしてたそうです。 しかし過去の悲哀に耐えきれず、この岩の上から利根川に飛び込んだそうです」 結局、哀しい話です>< この大坂から運ぶのに使った籠が今でも元景寺に残ってるそうです。
全国に、いろんな説が残ってますが淀君の説は初めて知りました。
もしかしたら、秀頼は島原へ、淀君は群馬へ。。そして島原の乱の鎮圧の話を聞き淀君は利根川に飛び込んだって事もありえなくないんですね^^ え? もしかしたら真実?(笑) |
前橋城 (上野)(所在地) 群馬県前橋市大手町 (形状) 平城 (別称) 厩橋城 (築城者) 長野賢忠前橋城は、古くは厩橋城と言われ、長野賢忠が利根川の返流によって水没した岩倉城の 三ノ丸を足がかりに築城した事に始まります。 その後、情勢に応じて北条家、上杉家、武田家、そして織田家の滝川一益と城主を変え 厩橋城は、関東騒乱に巻き込まれて行きました。 天正18年(1590)、再び北条家の城となっていた厩橋城は、豊臣秀吉の関東征伐により落城。 そして、秀吉の仕置により徳川家が治めることとなります 関ヶ原合戦後は、酒井氏が入り近代城郭に改修し、後に前橋城と名を変えて明治まで存続させます。 →【地図】 この辺りは駐車場になっていて、長く続く内側土塁を見る事が出来ます^^ ここから上に登ってみます==33 城域を見るのにも、雄大な利根川を見るのにもいいです 町中に、水路が巡ってるところは水掘りの名残を感じる事が出来ます。 公園外側は城外となっている為、5M位の段差があります 現在ルナパ−クとなっていて、堀底に乗り物が並んでます 以上が前橋観光。。いや前橋城散策になります。
土塁と石垣が少しと思っての散策で、あまり期待はしてなかったんですけど 本丸土塁の高さには驚かされます。 それと、今も残る地形から城域を感じられたのも良かったです ![]() にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ(文字をクリック) |
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