
たどりついた城は急峻な石垣が美しい山城だった。
戦国時代にはこの近くの別の山に城が築かれていたらしいから、
この城は江戸時代の築城ということになる。
つまりは砦として建てられたわけでも、合戦の舞台になったわけでもないのだろうが、
それでもやはり山国の城としてのスタイルを守っているということだろうか。
案内の看板によると、城は明治時代になって一度焼け、
昭和初期に再建されたとのこと。
昭和に再建された城にこれまでいくつも登ってきたが、
名古屋城や千葉の久留里城など、すべてがコンクリート製だった。
しかし、この城は木造で、天守内部の階段を登っていくと、
焦げ茶色の木の骨格が見える。
木の階段がギシギシ音をたてるところがなかなかいい。
郡上八幡の駅舎もそうだったが、
木をふんだんに使った木造家屋には癒しの効果があるのかもしれない。
天守の中は静寂が支配している。
今日は郡上踊りのない平日だから、町全体にもともと観光客が少ないのだろうが、
炎天下にここまで登ってくる観光客はほとんどいない。
最上階から郡上八幡の市街を見下ろす。
山あいの川沿いに広がる、ごく小さな町だが、
かつては飛騨の高山と美濃の各地を結ぶ流通の要所だった。
近くに馬の産地があり、昔は馬の市が開かれていたとのこと。
「平家物語」に登場する名馬「擦墨」はこの土地の馬だという。
馬の産地というと、大平原を想像しがちだが、
古来、日本の馬の産地は信州や甲州などの山あいが多い。
大陸から馬を連れて渡ってきた民族が、そうした山間地に入植したからだ。
彼らが奈良・平安時代に渡ってきたとき、
当時の技術で開墾できる平地はすでに農地になっていた。
古墳時代に渡ってきて大和朝廷を築いた騎馬民族に比べて、
彼らは遅く来すぎたのだ。
7世紀に朝鮮半島で百済・高句麗が滅んだあと、
高句麗系の騎馬民族は満州の沿岸に逃れて契丹という国を建てた。
そこから奈良・平安時代に多くの部族が馬と蚕を連れて日本海を渡ってきた。
馬も蚕/絹もすでに古墳時代の騎馬民族によってもたらされていたが、
遅れてきた騎馬民族は、信州・甲州・美濃から関東・東北地方に入植し、
朝廷の系列とは別個の畜産・養蚕業で生計を立てていく。
朝鮮半島の白頭山を信仰していた彼らは、
日本にも冬に真っ白に雪で覆われる山・白山を神と崇め、
入植した各地に白山神社を建てた。
また彼らは馬と蚕を神として祀った。
「オシラサマ」とは白い山のことであると同時に、
彼らの生活の基盤である白い蚕のことでもあり、馬のことでもあった。
また彼らは入植した各地で、一番目立つ山に駒ヶ岳という名前をつけた。
駒とは馬のことであり、彼らの母国「高麗」のことでもある。
彼らは米作を基盤とする日本の農業に適した土地を得ることができなかったため、
農民に馬や蚕を提供して生計を立てていたが、
平安時代後半に朝廷の支配体制が崩れ、争いごとが頻発するようになると、
騎馬民族としての武力を活かして、
国有地や中央貴族の荘園を守る用心棒のようなことをやりだした。
それが武士の始まりだ。
朝廷・貴族は、彼らに源氏や平氏の姓を与えたが、
これは単なる名誉な称号であって、
彼らが清和天皇や桓武天皇の血を引く貴族だからではない。
遅れてきた騎馬民族の移民である彼らにとっても、
主要産業である農業に参入する余地がない以上、
用心棒軍団として生きていくために、
そうした中央政府の認可を受けることは大きなメリットがあったのだ。
やがて平安末期になると、朝廷・中央貴族の支配体制は完全に崩れ、
用心棒軍団同士が派遣を争いながら、やがて新しい支配体制を築いていくことになる。
鎌倉幕府に始まるその支配体制は、支配者を変えながら、江戸時代の終わりまで続く。
そう考えると、遅れてきた騎馬民族の歴史は我々にとってとても身近なものなのだ。
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郡上地域の古墳分布は、長良川沿いの主要な支流の各合流点に群をなして存在しています。これらは、古代の交通や軍事の要所として、それにかかわる役目をもった人が配置されていたことを物語るものと考えられています。
これら古墳群の内で最も古いものは6世紀中期頃のもので6基確認されています。
白山連峰(2,702m)は石川・福井・岐阜県境にまたがり、その各山麓には養老元年(717)に泰澄大師によって創建されたという伝承を持つ三馬場(信仰拠所)があります。岐阜県側の美濃馬場(白鳥町)には石徹白中居神社・長瀧寺があります。長瀧寺は天長5年(828)には天台宗に改め、中世には天台別院の大寺となり広大な荘園を持ち、白山信仰の拠点として大いに栄えました。
その最盛は「奥美濃の正倉院」と称される多くの文化財や花奪いや延年に象徴される六日祭りによってうかがわれます。
2017/10/9(月) 午前 10:42 [ 白フクロウの眼差し ]