村をうろついているうちに雨はあがった。
山に湧いた雲が降らせたにわか雨だったらしい。
立ち去り際に、屋根の葺き替えをしている家を見つけた。
吹き替え中に雨が降ったらどうしているんだろう?
こんなにわか雨ならまだいいが、
大雨が降ったら家が水浸しにならないだろうか?
まあ、何百年も絶えずどこかの家の葺きかえをやってきたんだから、
困らないような工夫はしているのだろう。
よそ者の観光客がつまらない心配をしても始まらない。
たしか合掌造りの屋根は何十年かに一度葺き替えると聞いたことがある。
永続的に見える建築も、数百年、千年の長いスパンで見れば、
常に手を加えることで生きながらえるこわれものなのだ。
その村人たちの営為の積み重ねこそが、未来に残すべき遺産であって、
観光客が見る世界遺産とは、その表層部にすぎない。
ぼくが民宿に泊まって村人と接するのを避けるのは、
観光業を営む彼らの姿が痛々しいからというより、
自分が観光客として彼らと接することが恥ずかしいからかもしれない。
白川郷で余計なのは、
世界遺産を維持するために観光業を営む彼らではなく、観光客の方だ。
その観光客がカネを落とさなければ世界遺産は維持できないというジレンマが、
観光客のぼくをいたたまれない気にさせる。
理想の観光客とはこの村に一歩も足を踏み入れず、
村に寄付金を置いてさっさと立ち去る観光客なのだ。
観光客全員がそういう慈善家になったとき、
白川郷は昔の姿を取り戻すだろう。
ただし、それも建築と景観といううわべだけの姿だが。
農業と養蚕業で生計を立て、
村人全員で日常を生き、
村人全員で祭りを祝った昔の白川郷は、
現代の努力をどう積み重ねても再現することはできない。
だからこそ、その器としての建築と景観が貴重なのだ。
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